|
福知山市夜久野町に額田というところがある。夜久野の東端に所在し、牧川(由良川支流)が貫流する。川に沿ってJR山陰本線と国道9号線(山陰街道)が併走し下夜久野駅がある。
夜久野は四通八達の道が交合するところだ。額田の東に福知山、西に但馬の和田山・養父、北に但馬の出石・豊岡、南に丹波篠山、北東に京丹後・宮津が所在しいずれも額田から50㌔圏内にある。
藩政期の額田は旅籠や商店が軒を連ね盆、暮れには‘額田市’が立ち街の巷を成し、漆や生糸の生産で潤い、林地を掘ると鉄や銅、ろう石を産出した。漆は丹波漆で聞こえ、商圏は山陰一円、四国にまで及んだという。今は昔。喧騒の街は消え、街の奥に長い屋並みの影が路地に移ろうばかりだ。
令和7年10月12日、今日は‘額田のダシ行事’、‘つくりもん祭り’とも称される額田一宮神社の本祭日。氏子は山陰街道沿いの下町、上町、且、奥、向の五つの集落。家々の門口に御神燈を掲げ、座敷に花が活けてある。
 |
| 座敷飾り |
 |
| つくりもん |
街通りの路地は4.5~5㍍。藩政期の風情が残る路地にダシ(山車)が行き、野菜や穀物の種などで作ったジオラマが道端に飾られている。
額田の‘山車’と‘つくりもん’はいずれもダシと称される。双方、出し物(ダシモノ)であることには変わりがない。
さらに山車を「上ダシ」、つくりもんを「下ダシ」と称される。上ダシは山車の上(うえ)(二階)に今昔の著名人のつくりもんを飾り、下ダシはつくりもんを下(した)(地面)に置くのでそう呼ばれるものか、聞き忘れてしまった。山車のつくりもんは、子供歌舞伎の廃止(ダシの二階で上演された)に替わり行われるようになって以来、120年の歴史があるという。
本宮祭の11時過ぎから小一時間、祭りを見学した。
 |
 |
| 餅つき風景 |
駅前の大通りから下町の路地に入ると、妙龍寺の門前でダシの傍らで餅つき行事が行われていた。愉快な演技を交えながらつきあがった餅は氏子らに配られ、小生も2㌢角の餅のご利益にあずかった。餅つきは暮れの額田市で行われていた餅つきのサービスに由来するものか。軽妙な味わいがある。
上町、下町の二基のダシがそれぞれの本拠から移動し、宮入りの道行が始まった。路地は狭い。つかず離れず、ダシの後を追い祭見物。
山車は二階が回転するよう細工され、祝儀の記帳や音頭とりの受け持ちが座る。一階はこども二人が前向き(進行方向)に座り、伊勢音頭に合わせバチを上下させながら締太鼓を打つ。後方の笛囃子に合わせ山車は進む。
額田の伊勢音頭
♬ 伊勢は津でもつ ヨイ ヨイ 津は伊勢でもつ アーラヨイセーソーラ
…略…
坂は 照る 照る 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る
関の小萬さんは 亀山通い 月に雪駄が 二十五足。 |
その昔、額田から伊勢参りする人は少なくはなかったのだろう。伊勢音頭に盛られた歌詞から、山陰街道で京に上った人たちは三条大橋から東海道を往き、土山宿を経て鈴鹿峠の難所を越え、関の追分から伊勢別街道を抜け津に至った。津から伊勢街道を往くと伊勢神宮の外宮を経て内宮に着く。
生涯一度の娯楽を兼ねた伊勢参りの長旅は、帰省して聞き覚えた鈴鹿馬子唄などを参照しつつ伊勢まで片道二百余キロの思い出を額田版伊勢音頭に編曲して毎年、秋祭りで歌い継がれてきた。
下町のダシが宮入り。神社はTの字を90度右倒しにしたような路地の角に鎮座する。人力で路地を左にカーブさせ、ダシは神社石段下まで移動。ダシを止め宮入り。
| 祭りの荒事あれこれ |
| 愛媛県八幡浜市保内の秋祭りに大鼓台をスピード豊かに引き回す行事がある。神様は荒事を好まれるようだ。小豆島の蒲団太鼓は差し上げ、横倒しにする。難波の生国魂神社の夏祭りは太鼓台を横転、逆転、錐もみ、差上げと大暴れするのが流儀。祭神もお喜びのことだろう。しかし保内や難波の太鼓台でバチを打つ氏子に荒事は通じないようだ。太鼓のリズムが乱れることはない。額田の締太鼓然り。軽やか打ち続けるこどもの手が休むことはない。 |
路地は狭く、不用意に曲がるとダシの屋根先が民家に衝突するのは必定。ダシと民家の間合いを見図りながらダシの二階を右に左に人力で回転させつつ衝突を避ける。ダシの回転は、難所中の難所の克服のため額田衆が絞りに絞った無二の知恵。続いて上町のダシが宮入りすると、四方に配された力持ちがダシの二階をはじめはゆっくり、次第に加速してダシを回しはじめると唸りをたてダシはぐるぐる回る。
下町に続いて上町のダシ(上町・且の合同ダシ。「宮本ダシ」とも)が宮前の練り場に入り、二基のダシが同時に回り始める。ブンブン回りはじめると祭は最高潮に達っしやんやの喝采と拍手に街は包まれた。
宮入り行事が終わると二基のダシはそろって下町に向かい、妙龍寺の門前を少し過ぎたところで再度、ダシの回し行事が斎行された。額田のダシ行事は斎行場所の制約から特異な構造のダシをうみ、その特異性がダシ回しの荒事に深化し無二の行事が編み出されたものか。額田のダシ行事は間違いなく奇祭といえるだろう。
本宮日の午後から本宮から御旅所まで御神木の巡行がある。昨年、見学したが今日は見逃してしまった。記憶をたどると、一宮の御霊を奉祀して本宮の東、小高い山上に鎮座する八幡神社(御旅所)に御神木の巡行がある。額田祭の要の行事と思われる。
御神木は長さ3.6㍍、一辺12㌢の檜の角材。御先に榊と檜の枝を結わえ御幣がまわしてある。御旅所は崖上の平坦地にある。御神木は神輿に替わる御霊の乗物と考えられる。御旅所が難所にあってまた、氏地の巡行を思うと動きやすさも考慮し御神木のいわば神輿と考えられるがどうか。
一般的に御旅所は傾向として本宮の元社(地)である場合が多い。額田の御神木神事は御霊の遷座の様子を伝える神事のようにも思われるのである。しかし、一宮と八幡神社の祭神が異なり、遷座の動機がわかるとおぼろげながらこの街の古代に思いを馳せることもできるだろう。
御旅所巡行は遠い昔、額田を含む夜久野の覇王の交替があったことを示唆していないか。特に額田は古代から鉱山や鍛冶、養蚕を基幹産業としたフシがあり、文献に見える伝承などから丹波より但馬との縁が深い。八幡神(ホンダワケ)を奉祀した額田の先人と大陸に起源する覇王によって統治されるようになったものか。しかし覇王もまた同族。だからこそ元社を敬い遷座の神事も滞りなく行われたと考えるが、どうだか。
額田一宮神社社殿の印象
 |
| 一宮全景 |
 |
| 本殿 |
神社の創始は不明。祭神は彦火火出見命、豊玉姫、龍神の三神。対馬の和多都美神社など九州や海浜に鎮座し、安曇族の主神とみられる。
額田一宮神社は夜久野に隣接する朝来市内に鎮座する粟鹿神社(上・中・下社在。延喜式内社)の祭神と一致する。同神社は但馬一宮。一地域にとどまらず山陰地方の人々が群参したという。一帯に弥生式土器が分散し群集墳が見られ、古くから栄えた地域と推される。いつの時代にか額田に三神が勧請されたものか。
一宮神社の社殿をみると、本殿に比べ拝殿を大きく造り、海老虹梁(えびこうりょう)を使い本殿の身舎部を高く立派に見せ、軒回りの尾垂木の放列が美しい。一間社造り。
本殿の唐派風の兎の毛通しに鳳凰をしつらえ、その奥に宝珠を握った龍を配し邪気を払っている。向拝柱と貫が交わる左右に、阿吽の唐獅子と獏を配し、左右の二重の手挟に花鳥の彫り物が見える。彫り物(彫刻)は名工・中井権次(一統)の作品。 - 令和7年10月12日-
 |
 |
| 向拝周り |
向拝裏周り(海老虹梁等) |
|