| 空白の4世紀と丹後王国-京丹後市- |
京都府の最北端に丹後半島がある。そこは海浜の景勝地であるとともに日本が神話時代から歴史時代に遷移する曙の時代に栄えた古代の‘ゆりかご’。丹後王国と称する遠い昔のロマンあふれるところといえそうだ。
倭の女王が西暦266年に朝貢して以来、中国王朝に朝貢する倭の国はなく、西暦413年に倭国の使者が東晋に朝貢するまで中国の史書から倭国に関する記事が消えた150年間(3~5世紀)を倭国の‘空白の4世紀’或いは‘欠史時代 ’といわれる。
しかし空白の4世紀に倭国が滅びたわけではない。丹後王国は国内は無論、朝鮮半島の国々との交流、交易によって名を成し巨大前方後円墳を築造するなど日本海岸における倭国のトップリーダー的存在ではなかったか。
崇神天皇は、歴史時代に入ったとみられる4世紀前期に四道中の一つ丹波(丹後を含む丹波)と明示してまで丹波道主命を派遣している。大和政権に従わない丹波の平定に躍起となった大和政権の狼狽をうかがわせる。丹波が強国であったからこそ大和政権を苛立たせた証であるだろう。
〈武器に示された王者の履歴〉
古墳から丹波の豪族の素性をみると、産土山古墳、蛭子山古墳などの副葬品に武器が非常に多くまた、特色のある円筒埴輪や土器などが埋納されている。日本海のささやかな海浜や谷に、丹後の王は出雲のそれをはるかに勝る巨大な前方後円墳を築造し、目を見張るような石棺に納まり、多種多様の武器に囲まれて眠るのか。
倭人は往古、柿本人麻呂が詠じたように、棺内外を武器で埋め尽くした冥界を望むべくもなく、野山に捨て置かれた(自然葬)。しかし中国、朝鮮の王者は武器はおろか殉死の従者を引き連れ冥界に旅立つ者がいた。そして倭の王もまた大陸伝来の埋葬環境を整えるようになったものか。その狭間を埋める何かがこの国に起こったのだ。疑問は尽きない。
新羅の人で天日槍は、その名が示すように生前、槍や鉾を携え倭国を巡覧したのだろう。それらは武器。天日槍の渡海の目的が透けてみえないか。
もともと倭国に高塚を築き、武器や鏡などを傍らに置き埋葬する風はなかった。墓制はそう易々とは変わらない民族の手形。弥生の煙が燃えさかりやがて出雲に勝る日本海岸一の権力構造を巨大前方後円墳群に込め、墓制まで変えてしまった王国が平安京を遡る3百余年前に丹後に存在したのだ。
倭国の古墳において槍や鉾など武具の埋納は、渡来人の生前の日常を冥界(墳墓)にうつすことにより、己が身の再生ととこしえの繁栄を墳墓に託したのだろう。換言すると、内乱や外圧によって朝鮮半島から締め出された彼らは武装のいでたちで八十の伎人を引き連れ、倭国の開拓や戦いに明け暮れるうちに豪族に成長し、冥界においても王者であることを熱望した証であろう。
紀元1世紀ころ朝鮮半島南部に伽耶が生まれる以前から彼らは故地をさまよい出て、倭の弥生文化を主導し伽耶的弥生文化を倭地に吹き込んだこともまた事実であったことだろう。北九州、出雲、丹後など日本海岸の弥生墓や埋納遺物からそれとわかり、被葬者の正体にも察っしがつくだろう。
〈漢籍にみる倭と朝鮮〉
三国志の魏書倭人伝中、東夷伝条に朝鮮半島南部に存在した狗邪韓国の記事が載っている。拘邪韓国の位置や版図は特定できないまでも、「倭の北岸の拘邪韓国」とある。異説もあるが倭国の飛び地が朝鮮半島の南部に存在した。百済や新羅の史書等に記事がなく実相はよくわからないが、倭人が支配した国乃至倭人が混住する国が存在したことを否定する積極的な理由はない。
三国志の編者は北九州の邪馬台国が衰え出雲、但馬、丹後などから朝鮮半島に進出した倭人と伽耶諸国との交易拠点としていわば伽耶人と共同統治した倭国を拘邪韓国としたものか。そのような史実がなければ広開土王碑にみるように、数万人の倭軍が高句麗に攻め入ることなど到底、叶うこともなかったと考えられる。
拘邪韓国は対倭国向け人材供給センター的役割をも果たしていたと考えられる。渡来人は今ほど記述した通り、訳があって倭地への進出を考え、受け入れ地である倭地との連絡調整がなければ犬死のリスクは避けられない。拘邪韓国の役割をそこに見出すこともできるだろう。そのような在朝鮮の倭国の存在を考えなければ稲作文化の劇的な普及を望むべくもなかったことだろう。応神朝以降における渡来人の大量来日以前から伽耶と倭国との交流は日本創世の奔流とし倭地に航跡を刻み、その中心的役割を丹後勢力が担っていたからこそ巨大古墳の築造を可能としたと考えられる。
余談になるが戦後、高度成長期に丹後峰山の職業紹介窓口に東京行き、大阪行き等々の求人案内の札が掛かっていたように、拘邪韓国の倭地への人材供給センターに倭国の求人につき方面別案内が張り出されていたことだろう。繰り返し言うと、そのような実態がなければ到底、倭国の爆発的な稲作の普及や灌漑施設の築造はもとより網野銚子山古墳(墳丘長201㍍)や新明山古墳(墳丘長190㍍z)の築造など丹後の富国化も叶わなかったことだろう。
〈丹後王国の繁栄〉
丹後王国に加悦谷がある。チリメン街道で聞こえたところ。日本の着物生地の半分以上を生産する機業地の一つ。加悦は頑固に伝統をこだわる町。与謝峠(国道176号線)から一望できる。
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| 加悦谷 |
加悦谷は海浜の町ではない。山また山の大江山連峰の山裾にある。なだらかな傾斜地に拓け、野田川が平野を二分する。
丹後半島北海岸の神明山古墳の発掘調査が行われていない。築造年代ははっきりしない。丹後王国の王城(都)の探索に課題があるものの加悦谷こそ都(中心地)ではなかったかと思ってもみる。
丹後王国の竹野川河口(京丹後市丹後町竹野・間人)や浅茂川河口(京丹後市網野町浅茂川)の古代都市はかなり奥深くまで潟湖(ラグーン)を成し、交易船が舳先を並べ土器や鉄器、米や雑穀、管玉などの加工品等々の積出港或いは移入品の鉄鋌など鉄地金の受入港として荷役人が湖畔を忙しく立ち回っていたことだろう。湖畔の神明山古墳や網野銚子山の王墓を仰ぎ見て、日本海に向け潟湖を漕ぎ出す船人の姿がみえるようだ。
北陸方面からの物通は丹後与謝の湊(宮津湾阿蘇海)から加悦谷へまた、丹波福知山方面からの荷は与謝峠を越え加悦谷に陸送され、加悦は四通八達の巷を成していたに違いない。
潟湖をなす竹野川河口は、伽耶物資の倭の一大集散地と推され、墳丘長が日本海岸第2(第1は網野銚子山古墳(201㍍))の新明山古墳(190㍍)や延喜式内社(大社)の竹野神社が往時のよすがを偲ばせる。大和に歴史時代がおとずれる前夜、第9代開化天皇妃となった竹野媛は丹後・竹野の人。大和政権はそのころから丹後王国に接近していたと考えられる。しかし歴史時代の始まりとされる第10代崇神天皇が丹波道主命を丹波(そのころ丹後は丹波の域内)に派遣する記事が日本書紀にみえさらに、倭の五王の時代(5世紀)に至っても倭王武の対中国皇帝への上表文からなお日本統一には至っていなかったことをうかがい知ることができる。大和政権は6世紀前期に磐井の乱を平定し屯倉の設置などを通じようやく統治機構が整備されはじめたのだ。しかし統治国家日本の船出は大化の改新を断行し、大宝律令の制定を待たねばならなかったのである。
〈王都は加悦谷か〉
倭国の遣使を西晋送って以後、倭の外交史は漢籍から消え、空白の4世紀に、倭国軍が高句麗に侵攻した記事が高句麗の広開土王碑や百済王が倭王に送ったとされる七支刀の存在から倭と高句麗や百済との関係史がおぼろげながら浮かんでくる。しか両記念物に示された金石文に欠字がありまた、その読み下しや文字解釈に諸説あり、倭の欠史時代の実相を知ることはできない。
奇しくも、記紀の研究が進み古墳の発掘調査などから倭の欠史時代の諸相が少しずつ分かりかけ、丹後が最も輝いた時代が欠史時代に重なることが知られるようになった。
朝鮮半島の折々の政治的混乱が伽耶、新羅等韓人の渡来を促し、丹後王国の商圏は拡大し丹後王国は大いに栄え、巨大古墳の築造を可能とする素地ができたと考えられる。
丹後王国の物資の集散地を見ると、竹野川、浅茂川両河口の潟湖周辺と丹後王国の北辺、加悦谷に集中しただろう。
丹後王国は邪馬台国や伽耶同様に豪族の連合政権と考えられ王国の中心地に議事殿等の集会施設を必要としたことは自明であろう。
丹後の加悦から竹野まで25㌖あリ浅茂川(網野)はさらに遠くなる。さらに竹野と網野は海岸部に偏り、連立王国・丹後の中心地にしづらい。丹後の豪族たちは王国の中心地を探ったことだろう。
丹後王国の施政を支える王都の議事殿たる集会施設は背後に大江山を抱える加悦谷が適地であることは自明。しかし豪族の序列を決めかねない王都の決定に大義名分を必要としたこともまた事実であろう。
〈王都の大義名分〉
中国、伽耶等朝鮮の王都はその位置(方角)が重要視され、奠都設計の基本となった。
藤原京、平城京、平安京等々の都城の設計は、中国の王都をモデルに、北極星の観測情報から南北の基軸を割り出し、精微な設計が行われたことだろう。
そこで竹野と加悦谷の位置関係を探索するため、①神明山と蛭子山の両古墳の緯度・経度を測定し方角等を計算すると古墳間の距離は25.5㌖、②両古墳を結ぶ軸線は蛭子山の真北に新明山古墳があり、誤差は僅か1度。
両古墳の位置関係は偶然とは思えない。神明山の真南に蛭子山古墳を据える計画が決まり、続いて奠都計画が進められた可能性なしとしない。
地図の上下逆にして日本海岸を手前(南)におくと形而学上、竹野(神明山)の真北が加悦谷(蛭子山古墳)になり、議事殿(集会施設)は「君子南面」の中国・朝鮮の思想にも合致する。そのような王都の感覚を得て、墳墓(蛭子山)と議事殿の設計が完成し、建設が進められたと想像する。
| 大虫神社のこと |
蛭子山古墳の南東1.8㌖の大江山山麓に大虫神社(延喜式内社・明神大社。与謝郡与謝野町字温江)がある。二度の火災により小虫神社とともに現在地に落ち着いた由である。位階は従四位下。 |
丹後王国は豪族の連立政権。かつ弥生時代からそれほど時日も経過していない。大袈裟のものではないにせよ、蛭子山古墳からそれほど遠くない加悦谷(吉野ヶ里遺跡参照)に集会施設が建てられたとしても不思議ではない。
加悦谷を見下ろす大江山山麓の蛭子山古墳に近い今の大虫・小虫神社の付近(温江)に集会施設はあったと想像するが、どうだか。加悦谷のどこかで王都の議事殿遺構が見つかる日が来ることに期待を寄せたい。-令和8年8月- |
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