京都
由良川の氾濫(洪水)−福知山、綾部市等−
眼下は私市、対岸は福知山」(観音寺、土、石原等)
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平成25年9月16日、台風18号の影響で近畿地方は由良川や桂川が氾濫した(以下、「9.16水害」と略す)。由良川は28災(昭和28年13号台風)以来の大洪水に襲われた。
 由良川の洪水の遠因は28災と同様に台風によるもの。福知山と綾部両市に被害が集中した点でもよく似ている。しかし被災対象をみると、28災が福知山の市街地の北側に築かれた由良川堤防が決壊し、どちらかというと市街地家屋の損壊が著しかったのに較べ、今次の水害は、綾部、福知山両市の行政界や下流の岡田地区等(舞鶴市)における堤防決壊乃至越流水による田畑、道路等のインフラ被害が主たるものとみられる。
 由良川は28災を教訓に要所の護岸のコンクリート化や橋梁の改修、排水機場の整備等が急ピッチで進められ、昭和34年、同47年、平成16年(由良川下流部の水害)などで水害が発生したものの福知山・綾部市内で際だった水害は発生していなかった。
 今次水害の状況は次のようなものだった。
 平成25年9月16日未明から雨脚が早くなり、由良川流域で激しい雨が降り増水、遂に舞鶴若狭自動車道の下流域で洪水が堤防を越えはじめた。明け方、由良川右岸の私市の山腹から氾濫域を見ると、舞鶴若狭自動車道の下流約100メートル余の地点で、左右両岸から洪水が天端(堤防の上端)を越えているのが見える。(写真上、クリック)。
 由良川右岸の私市では堤防延長の3か所で越流水が水田に流れ込みダム湖のように澱んだ水上に中丹支援学校が浮かんで見える。盛土上に建てられた校庭が冠水の模様。眼下の私市ではすでに府道の一部が冠水し通行不能の状態。
 越流水中、舞鶴若狭自動車道にいちばん近い堤防は28災の被災地点に近い、その下流の越水は昔の渡し場付近とみられ、支援学校南側の越水地点とともに堤防が低く(未改修)、越水した模様。
 対岸(由良川左岸)の観音寺、興、土、戸田、石原の洪水も著しく、集落や新興住宅が飲み込まれ、濁った洪水に浮かんで見える。この左岸堤防も私市側と同様約300メートルが未改修。堤防の小段まで築かれているが、ひとたまりもなく越水したのだろう。ここから流れ出た洪水と綾部井関の用水、戸田橋あたりから堤内地に逆流する由良川の水が合流し、一挙に湛水の水位をあげ渦巻き、激流を生み農道、堤防の基部をえぐり、水嵩をあげた濁流が住宅地を呑み、左岸の洪水面が対岸(私市)の未改修堤防の天端に近づき、やがて堤防をオーバーフローした濁流が音を立て私市の田畑に流入し、農業用ハウスを呑みこみ中丹支援学校が孤立している。私市の堤防は破堤しているかも知れない。
 洪水が堤防を越え水田に流れ込み、集落に迫ると住民の避難がはじまった。福知山はむろん綾部市街や綾部市栗町付近栗町など沿川住民の避難がはじまった。「急に増水したのでおそろしかった。親から28災の洪水の様子を聞いていたので心配でした。」(栗町の中年女性)と青ざめる。
 夜間の洪水にもかかわわらず消防署の避難指示や水防団(警防団とも)が機敏に動き、死者や重傷者はなかった模様。夜が明けて雨足が弱まり綾部市内の避難所では午前7時ころには帰宅する人やがれきの除去を始める人が忙しく動き出している。一刻も早い災害の終息を願いたい。


今次の水害は米や大豆の収穫期に当たる洪水で農業被害は甚大である。
 由良川の中流域、福知山盆地は昔から洪水の常襲地帯。盆地から河口部の若狭湾に至る約30キロメートル余の流路は峡谷をなしかつ、2300〜2500分の1の類稀な緩い勾配が主因となって福知山盆地に湛水被害をもたらしてきた。さらに、低湿地は福知山盆地の東端、位田井関下流域(綾部市大島、延、栗町など)にまで及んでいて、由良川河口から数十キロのこれら地域を含め洪水の常襲地帯。由良川を遡上した鰡など海産魚の回遊が位田井関辺りまで認められるも、そうした由良川の特性によるものだ。
 藩政期から先の大戦前には、皮肉にもこれら由良川の氾濫源が綿や桑の優良な栽培適地だった。藍の栽培で栄えた四国吉野川と似たところがあった。 → <吉野川第10堰><藍こなしの風景>
 戸田の河川敷を歩くと、ひと抱えもある桑の木や目通し1.5メートル余のセンダンの木がそれぞれ数本、提外地に取り残されており、洪水の常襲地帯で桑の栽培が行なわれていたことがわかる。
 28災以来、福知山市街の北側(由良川右岸)に高く強固なコンクリート堤防などが築かれ、破堤や堤内地の湛水によって市街地が水没する事態は避けられるようになった。しかし、由良川の緩い勾配から推し、大雨によって行き場を失った洪水が逆流することは当然の成り行きだった。さらに、戸田を含む盆地東部地域において、逆流した洪水が堤防の未整備と相俟って提内地に湛水被害をもたらすことも想定される。今次の9.16災害がこのケースとみられる。
 被災地の小貝・私市から川北間(左岸の土、興、戸田、石原(いさ)を含む)は福知山市街に隣接し、昔から洪水の常襲地帯。田圃に複雑な曲線を描く自然堤防の痕跡や本流から100〜1000メートルの内陸において・・・具体には位田(綾部市)から猪崎(福知山市)にかけ氾濫原と河川段丘の交点(以下、「段丘断崖」という。)に険しいがけ地が延々と続き、この地方の治水の難しさを暗示している。その氾濫原や段丘断崖の内外で農業や集落の日常生活が営まれ、近年では氾濫原において新興住宅の開発も盛んである。段丘断崖の劣化も相当、気にしなければならない。
 下流部に傾斜の小さい渓谷部をもつ由良川は洪水の発生構造が円山川、江川、阿武川など日本海岸の河川と相似形をなしている。それが由良川の舟運を発達させ、上古においては日本海ハイウエーたる対馬海流にのって請来する朝鮮の進んだ文化の吸収、伝播に重要な役割を果たしかつ、洪水が沃土を運んで桑、綿などの生育を助け当地の産業を支え、古墳文化の花を咲かせたと僕は思う。 → <私市円山古墳の風景> <聖塚の風景>
 しかし、勾配が緩やかで河川構造が由良川と似ている江川や円山川などでは湛水被害を含む洪水はもはや昔物語になりつつある。由良川改修がなぜ進まなかったのか。下流部は未だ無堤の地区もある。デ・ゲレーテがこの世に蘇ればどのような知見を示すだろうか。由良川はその美しさと裏腹に、洪水の恐怖が同居するわが国でも数少ない河川の一つといえる。→ <橋の風景>

被災堤防の改修

28災に続き二度まで堤防の損壊に至った私市の高速道路下流の堤防整備は喫緊の課題だ。高速道路の建設とも重なり、下流域の整備が遅れたとは考えたくない。
 被災後の現地を歩くと、高速道路の高架橋の整備に併せ築かれた右岸の堤防と未改修区間の堤防の段差は約2メートルにもなるだろう。高速道路の橋脚の根元も被災し、3メートル以上えぐられている。右岸堤は左岸の改修(小段まで完成)とバランスを保ちつつ早急に整備すべきだ。由良川河口部の被害も甚大である。
 浦島神社辺り(戸田地区)の住宅開発も進んでいて近年、この辺りで由良川の大規模な築堤改修工事が行われている。洪水はその整備途上でおきたようだ。インフラや田畑の被害はこの辺りが一番ひどい。道路は陥没し、流れだしたアスファルトは田圃に放置されたまま。稲は倒伏し、流木とゴミに覆われている。

  9.16災害から学ぶこと
 由良川の氾濫原について、今次9.16災害の浸水区域は戸田、前田など福知山東部地域及び私市など綾部市西部地域のそれに近いことがわかる。被災を免れた綾部井関以西の青野、位田、延、栗上、栗町、石原(いしはら。いずれも綾部市)等の氾濫原は28災における浸水区域が一応の目安となるだろう。
 さらに由良川右岸を地図や28災の浸水区域図を片手に位田から川北、猪崎辺りまで歩くと、氾濫原が比較的はっきりわかる。それは由良川の現在の流路から段丘面までとする常識とも一致する。この段丘面をたどって現地をたどると、住区内に段丘面がはしり、崩れやすい崖地になっていて崖下に住宅があるところがかなりある。一部、河岸の痕跡とみられる竹藪の残丘がみられるところもある。
 西日本の異常気象は勢いを増しており、堤防の維持、更新とともに、早急に急傾斜地対策が求められるゆえんである。

 由良川は暴れ川。氾濫原の大きさは、今次災害の浸水区域と一致する。そこは由良川流域では1、2を争う穀倉地帯。堤外地にもかなりの耕地が形成されてきた川の歴史もあり、事態は深刻である。泥に染まった茶畑や栗園で呆然とたたずむ農民の姿から私たちは目をそらすことなく、いわば‘由良川農業’の再興を考えねばならない。
 私市の被災堤防の復旧応急工事は9月26日までには概ね終わったようである。徹底的な被災調査と原状回復が必要だ。
 当面、国・地方の行財政対応について、無堤或いは狭窄部の改良を含む緊急・応急の調査と復旧工事を強力に進めるとともに、氾濫の根治に向け由良川上下流におけ河川改修計画と森林防災計画(山腹崩壊危険箇所等の管理の適切化と床固工等工事計画)との整合性の確保につき徹底的な論議が必要である。今次の災害は丹波高原のモナドック(残丘)とも言うべき山々が連なる上林方面(綾部市)で降った豪雨が一挙に吐き出され由良川中流域の洪水面が劇的にあがり、氾濫に至ったとされる。
 上林の山に入ると、山腹は崩壊し伐期齢に達した立木が折れ或いは根こそぎ倒れ林道の行く手を阻み、砂防ダムから土砂があふれ出ている。森林の荒廃と保水機能の低下は、まったく目を覆うべき惨状をもたらし、いまや日常の風景と化してしまった。さらに折れ重なった倒木をみると、ここ1、2年の災害によるそれではない。人手不足や木材価格の低下などから森林施業の意欲の減退とも重なって、往年の災害の都度、捨て置かれた遺骸木の山であることがわかる。上林にとどまらず弥山、黒谷の山、然りである。山は悲鳴を上げている。僕は思う。災害に対する緊急、応急の対処にかまけ災害の根源を断つ努力を私たちは怠ってはいないか、山があり川の水は流れる、防災の観点から森林と河川が一体として管理され、防災工事や森林施業が行われなければ、いつまでたっても河川の氾濫は止まずまた山腹の崩壊を断つこともできないと。そこには国や自治体の産業政策や予算配分のあり方等々が深くかかわっていることもまた、現実的な問題として看過してはならない、と思う。
 さて、今次の9.16災害を戒めとして関係行政機関は由良川水系の河川整備計画や地域森林整備計画の抜本見直しを行う機会に、洪水防御率の設定と事業費の関係等々施策と負担の問題や森林保全の在り方等につき市民のコンセンサスを得つつ、河川改修事業や林道整備事業等の再評価と公表を行い、広く市民参加の討論を求め、由良川水系の河川整備計画や地域森林整備計画の樹立に万全を期すべきである。関係自治体はそれらの上位計画を念頭に置きつつ、強靭な防災基盤の確立を目指し、地域防災計画の一新を図るべきと僕は思う。二度と由良川の氾濫がおこるようなことがあってはならない。−平成25年9月16日−

由良川右岸(私市、佐賀を望む。中央は中丹支援学校)

小貝の流れ地蔵(北向地蔵尊)
 9.16災害の被災地、私市に接して小貝というささやかな集落がある。当地は由良川の支流犀川が流れ込む直下にありかつ、目の前は由良川、背後に山塊が迫る水害の常襲地帯。昭和28年の大水害後、現在架かる新小貝大橋(桁橋)の前橋(コンクリート橋)が架けられるまでの間、橋はワイヤー・ロープで結ばれた流れ橋だった。繰り返し繰り返し、流失と復旧の繰り返しの歴史を刻んできた。
小貝北向地蔵尊 藩政期、頻発する水害や飢饉の脅威に、村人は享保11(1726)年11月、集落に地蔵尊を祀った。等身大の立派なもので供花が絶えることはなく、祠にかけられた千羽鶴がその信仰を物語る。
 お地蔵さんは造立以来、十数回の水害に遭い、その度に流失し捜索が行われ元通りに復元された。この霊験ともいうべき不思議なお地蔵さんは、流されても流されても発見され、堤防下の祠で住民の安否を気遣ってきたのだという。しかし、28災の大水害で御身は隣村まで流され、遂にお顔は見つからなかったという。
 いま、お地蔵さんは住民の信仰に支えられ祠の中で微笑んでおられる。堤防が完成し、今次の水害で小貝は大きな被害もなかったようである。水害と地蔵信仰の歴史を考えるうえでも北向地蔵は貴重な民俗資料といえる。−平成25年9月−