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吉野川第10堰(吉野川)-石井町-
吉野川は、紀伊水道に流入する大河。流域面積、河積ともに申し分なく四国三郎の名に相応しい河川である。川は、中央構造線の大地溝帯の南側を流れ、美濃田の渕に太鼓の記憶が蘇える。上流部は横谷を成し、大歩危・小歩危の深い渓谷に奇勝を生み、瓶ヶ森(標高1897b)の源流地帯へと続いている。河川延長196`b、信濃川の半分ほどの長さである。
吉野川が三郎の名をほしいままにし、今日なお人々の脳裏から消えないのは、恵まれた水辺さらには香川、愛媛、高知各県に膨大な利水を供給し続ける豊かな水量と藍を育んだ歴史が刻まれた川であるからだろう。
藩政期から明治期にかけ、吉野川の治水は極めて極めて貧弱なものだった。毎年のように襲う洪水は、肥沃な客土となり換金作物であった藍の栽培に必要不可欠なものとして、無堤を基本とし築堤などには余り関心が寄せられなかったのである。
吉野川に第10堰が築かれたのは、宝暦2(1752)年だった。築堰を80年遡る寛文12(1672)年、徳島城下の舟運や灌漑用水などの利水の用から新川が開削され、別宮川(現在の吉野川本流)に導水された結果、本流(現在の旧吉野川)の水量が減り灌漑に支障をきたし塩害なども生じたため、第10堰を築き分流調節を行う必要に迫られた所以からだった。
このように第10堰は利水に力点が置かれ、もともと治水施設としての機能には乏しく、第10堰の設置後も河川はしばしば氾濫した。明治中期になり、インド藍や化学染料の輸入によって藍産業が凋落の道をたどりはじめ、耕地の稲作への転換が始まると、治水への関心は次第に高まっていったであろう。おりしも政府は、オランダ人技術者デ・ゲレーテ(写真上)を招聘し、各地の治水につき巡察せしめた。明治17(1884)年、吉野川治水につきゲレーテは別宮川の本流化、第10堰の撤去等を提言し、昭和2年にようやく別宮川の直線化による本流化等の工事が完了し、別宮川は今の吉野川本流となったのである。以降、吉野川本支流の治水、利水工事は着実に進められ、隣県にも大量の用水を供給している。デ・ゲレーテは、日本一の急流、富山の常願寺川の治水や港湾の整備など各地で土木事業全般にわたる知見を残し、後の土木工事の施工に大きな業績を残している。吉野川の治水についても、「水源山地の荒廃防止」を指摘することも忘れてはいなかった。ゲレーテは、日本の恩人ともいうべき慧眼の人であった。-平成15年5月- |
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