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佐賀 |
神崎・箱崎宮の風景-神崎町- |
筑紫二郎と称される筑後川は、有明海に流入する九州一の大河である。扇状地を覆う大河の沃土は筑後平野の豊饒を約束し、大河の流域には上代から文化が花開いていた。吉野ヶ里や平塚川添のムラムラから煙が昇り、磐井の君が雄飛し、或いは玄界灘を渡ったであろう装飾古墳の被葬者が住まいしたまほろばであ
ったに違いない。
筑後川の右岸域、だいたい神崎郡に含まれる地域が中世の神崎荘である。もともと皇室の後院領であったが平氏が西海に勢力をもちはじめると、平忠盛の知行地となり、平家滅亡後も3000町歩におよぶうまし神崎の地は皇室領として存続し、当地にも地頭が置かれるようになる。神崎荘は、元寇後の論功行賞によって総数400人におよぶ御家人に配分され、一分地頭であふれるところとなった。
神崎に箱崎神社(写真上、左右)という社がある。社は、後世の長崎街道神崎宿(写真左下)の中枢部に所在し、高志神社とともに神崎荘の鎮守である。福岡の博多に同名の箱崎神社がある。両社は、社名はむろん祇園山笠など共通点も多い。九州には宇佐八幡宮、宗像神社など全国の社の元社となるものが多いのであるが、箱崎神社の博多と神崎の関係がはなはだはっきりしない。博多の住吉神社と大阪の住吉神社の関係に似たところがある。神崎郡に9世紀に勅旨田が置かれており、そのころから櫛田神社は存在していたと仮定できるが、博多の櫛田神社の創記も9世紀とする社伝がある。神崎から背振山塊を越え博多に運ばれた神崎米の運上ルートなどの関係から神崎の櫛田神社を元社と考える者もいる。
神崎ではかつて背振山麓で麦を搗く水車小屋や有明海に近い低湿地ではクリークを目にすることができた。しかし今日、農業生産基盤の整備の進展によって水車やクリークはほとんど姿を消し、僅かに水車の里(農村公園)や横武公園などでそれらが保存されている。クド造りの民家など佐賀の象徴的な風景が凝縮されており、それらを尋ねる旅もよいだろう。 |
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