|
||||||||||
若狭ノート | ||||||||||
美母呂(みもろ)の路−福井県大飯郡おおい町名田庄納田終 | ||||||||||
管領職の人事争いを発端にして11年間続いた応仁の乱は都を荒涼とした戦場に変えた。都の七口(出入口)は大内政弘ら西軍に抑えられ、いわば経済封鎖がなされ庶民や公家らは都の郊外や隣国への避難を余儀なくされた。乱後も戦国大名の台頭、反乱や加賀の一向一揆の勃発などで都の政情は著しく不安定な様相を呈していた。 将軍職は形骸化し、将軍といえども都を追われる事態を請来した。都を去り再び都に戻るまで約250年、地方で臥薪嘗胆の日々を送った阿波公方などもいた。 庶民や公卿たちが都から離散する事態は、ト占、天文、暦、病気治療などの技術的知識を持った陰陽師安倍家の人々とても同じだった。長享2(1488)年、ついに安倍有宣が名田庄に下向。以来、安倍家3代が110年余にわたり名田庄に住み続け、一族が都に戻ったのは慶長6(1601)年だった。その間、安倍家3代の当主は名田庄において朝廷の命を受け造暦、ト占、天文道に尽くし、土御門家の称号を授けられた。造暦の伝統は今なお当地に受けつがれている。 白矢には土御門総社や加茂神社、十王堂、薬師堂など安倍家縁の社群などを残し、薬師堂の近くに土御門家3代の墓所がある。これら遺跡を巡る小路が「美母呂(みもろ)の路」。そこは丹波の美山から小浜に通ずる幹道沿いにあり、また近年、近くに暦会館や道の駅ができ、当地を訪れ、名田庄の古に思いを馳せる人もまた多くなった。
10世紀以降になると陰陽道は賀茂・安倍両家によって担われるようになる。室町時代には安倍家は土御門家の称号を得て堂上に列せられ、陰陽頭を代々世襲した。賀茂家は陰陽寮の助に任じられた。江戸時代に至っても土御門家の権勢は衰えず、数万の陰陽師を従えたという。 陰陽道はもともと中国の土俗的思想から生じたものであるが、土御門家の祖安倍清明がト占の術に優れ数々の説話をのこした。花山天皇の変事を予見し、藤原道長への呪詛を防ぐなど権力に接近し清明の名を有名ならしめたのである。 陰陽道は暦等の自然観察の体系であるが、方位から卜占によって全ての吉凶を判断する神秘的部分が伸張しおそれられるようになり、平安貴族の生活とも深い関わりをもつようになった。公家の日記などを読むと、毎日の行動が陰陽道から発せられる夥しいタブー(禁忌)と占術によって律せられていたことがわかる。その発芽は藤原氏が天皇の外戚として宮廷を席巻するようになる9世紀半ばころと推することができる。公家官僚社会が藤原氏を中心として構成され、物事が有職故実によって方向付けられるようになると、慣例や先例への適合具合が重要となり、その詮議につき陰陽道から編み出されたタブーや呪術が深く関わったことだろう。意思決定にかかる時代の特性が陰陽師を必要としたのだ。 陰陽道は、祝儀や葬儀、友引の日取り、家屋移転の鬼門、恵方、星祭或いは干支と運命等々にみられるように今も私たちの生活に大きな影響力を保ち続けている。もっとも陰陽家・土御門家においては暦の編纂など自然科学的な知見を要する大事を所掌していたわけで、何時も摩訶不思議な占術に傾倒していたわけではない。今も土御門文書編纂所監修による「御寶暦」の発行が行われている。
丹波の山間では今でも茗荷や筍の出芽の状態により、稲の豊凶や風水害を占うト占が年中行事として行われている。この行事もまた生活暦といえようが手法は占術に近いものといえよう。(茗荷さん(阿須々伎神社)、筍さん(篠田神社)、早竹神社の筍祭) |