早竹神社の筍祭-綾部市高槻町- |
やまじきて いや雪深に はるのいろ <芳月> |
丹波の深い雪の下にも筍(タケノコ)が顔を出しはじめた。
節分のころ寒明けとともに、水田の起耕の準備がはじまる。早稲、中稲(なかて)、晩稲(おくて)と、播種の準備も重要だ。さらに水害は・・・、台風は・・・、と農家の心配の種は尽きない。
今日、稲の品種改良が進み、播種の時期は一昔(5月の連休ころ)ほど遅くもなく、寒さや倒伏に強い品種が開発された。しかし、農作物の豊凶はやっぱり自然任せのところがあり、農事にかける農家の緊張感は今も昔も変わるところがない。
2月5日、早竹神社で筍の刈上げ行事(筍祭)が行われた。祭は矢竹のタケノコを掘り、その色かたちの状態や生えでた場所などから稲の豊凶や風水害などを占うというもの。
早竹神社は高槻集落から約2キロの山手(杉谷)に鎮座する。神明造り(杮葺)のささやかな社殿に八大荒神と帝釈天王を祀り、常例では般若心経をあげる。
地区の人々は除雪に3日間、軽四自動車がやっと通れるほどの道をひらき、この日の祭に備える。神社は杉谷川(菅谷川とも)に沿った急斜面に建ち、社殿の正面右手の傍らに10アールほどの矢竹の林がある。藩政期には矢の部材として植えられていたという。祭は深い雪に覆われたこの矢竹の林床から筍を刈上げ、その色かたちなどを検分し、早・中・晩稲の豊凶や風水害などを占う。
早竹神社の筍祭の起源は不詳。社殿に残された祈祷札の記銘から宝永5(1708)年ころには鎮座し、また社名の「早竹」から推し祭の起源もこのころまで遡ると推することもできるだろう。先の大戦前まで神社の少し上手に民家が3軒あって、神社の管理を行っていたという。貞享年間(17世紀中葉)の検地帳からこの谷に、民家5軒が所在したことがわかり、細々と祭が営まれてきたらしい。
早竹神社前の谷沿いのそま道を遡り、蓮華峠を越えると岩王寺(七百石地区に所在)に至る。昔、この辺りの山から岩王寺石(硯石)や石灰岩を産した。石灰岩の採掘は終戦に至るまで続き、廃坑後もトロッコの軌道が放置されていたという。岩王寺石の採鉱を含め神社と鉱山との関係も注目されてしかるべきだろう。また社殿に、嘉永年間に岩王寺の僧が導師となって神社の遷宮に関わった記録もあり興味深い。
杉谷は今、そこに住まいした人々の移住や絶家等により住む人もいなくなり、早竹神社の管理は高槻地区自治会によって行われているという。
寒明けというのに矢竹の生える急斜面の雪は深い。午前10時すぎから筍の刈上げが始まる(写真上)。作業は深い雪に阻まれて難
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筍(中央。矢竹) |
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神前に供えられた筍 |
航の様子。10時35分ころ早稲の筍(最初に見つかった筍を早稲に当て、順に中稲、晩稲に当てる)が掘り当てられ、同40分に中稲、晩稲の筍がほぼ同時に掘り当てられた。ひと休みして、掘り採った筍を神前に捧げ、午前11時15分から上羽家(同家は高槻地区の株内(カブウチ。単にカブとも。姓と家紋を共有する同族)のひとつ。当地区の開拓者との伝承がある。)の関係者によって筍の検分が行われ、神殿前でト占の結果がしめされた。‘早・中・晩稲とも色艶はよく申し分がない。特に、中稲、晩稲の順にいろ、かたちともよい。筍は竹林の上の方にあがっていた。水の心配はない’とのことだ。
筍の刈上げ行事は現在、地区住民以外には公開されていないようだが、地元自治会に申し込むと見学できるようである。
早竹神社の前を流れる杉谷川に沿って山道を歩くと、蓮華峠を経て岩王寺(七百石)に至る。-平成24年2月- |
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早竹神社 |
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早竹神社の筍祭祀雑感 |
早竹神社の筍祭は、伝承や祈祷札等の周辺資料から地区内の上羽家一統によって執り行われてきたことがわかる。筍の検分は上羽家の特定者によって行われ、稲作の豊凶、風水害等の予見が行われる。類似の行事が行われる志賀郷の篠田神社の筍祭においては、筍の刈上げは輪番により町区から選任された者(禰宜と称する)によって行われ、ト術はその手法が神殿前に掲示されるものの氏子銘々に委ねている。早竹神社のそれは刈上げ、占術が株内の特定者によって行われ、もときわめて土俗色が強く古風をとどめている。陰陽道の影響も見逃せないだろう。
筍祭は農事と深く関わっており、太陽暦或いはお化け暦で足りない情報を地域特有の自然現象から得て、作物の豊凶や風水害を占うものであり、生活暦の範疇と考えるべきものである。志賀郷の茗荷さんやたけのこさんとともに、京都府下ではきわめて特異な行事といえよう。
株乃至株内の営みは、丹波及び丹後の一部地域において冠婚葬祭のみならず祖先神にかかる祭祀などを共有し、地区内に株ごとの小祠を祀るところがある。早竹神社はそうした故習を示す上羽家の小祠であろう。
株内における祀りの対象はさまざまであるが、神祇は大神宮や特定の明神大社、荒神などを、仏・菩薩は大日如来、観世音菩薩などを祀るのが一般的であるが、仏・菩薩として帝釈天を祀るものは近畿では珍しいといえよう。株内の結束は強く、町区全体の祭のほか別途の株内行事を行うものが戦前は多かった。
時代の推移とともに株の結束は崩壊しつつあり、株内で祭祀行事を行うところは丹波、丹後においてもほとんど消滅した。志賀郷など奥丹波や伊根など丹後の一部の地方にしかみられなくなった。
昭和19年、陸軍火薬廠の疎開計画により杉谷川下流にその移転地が求められ、上羽家一統が杉谷から強制移住させられた経緯がある。これにより、早竹神社の管理すら危ぶまれたが、その後、神社の維持管理が地元自治会に移管され、神社は廃絶を免れ筍祭は今も続いている。 |
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参考:阿須伎神社の茗荷さん、
篠田神社のたけのこさん
美母呂の路 |