日本の中世において、室町時代の終末期ほど将軍の権威が地に落ちた時代はない。応仁の乱以降、将軍職はもはや形骸化の極点を極め、有力武将の擁立を受け、ようやく将軍の地位を保ち得たのである。したがって、都に旗を立てた勇将が戦乱に破れると、擁立された将軍も下野することがしばしばあり、彼らは再び自ら或いは子孫に上洛の望みを託したのである。越中など京滋周辺の地方都市に、そうした臥薪嘗胆の日々を送った足利家一門の夢の跡が遺存する。
私たちのみる夢は一夜もすれば忘れるほどはかないものであるが、200数十年にわたり上洛の夢を追い、その間将軍に座位する者もあったが大半、地方で過ごした公方がいた。その一門は、足利義冬を初代とする「阿波公方」である。義冬は、10代将軍義稙(よしたね)の養子で11代将軍義澄の子。義稙が都落ちし撫養(ぶよう。現在の鳴門市)で死去すると、足利家ゆかりの阿波国平島庄に移り住み居館平島館を築き、第9代目公方義根が1805年(文化2年)、洛中に戻るまで実に約270年にわたり住みついたのである。
平島館は、徳島県那賀川町の南端を流下する那賀川北岸の沖積平野中にその残影をとどめている。館跡は現存していないが、古津に「お屋敷」「御門」「馬場」などの地名が残り、館跡に石柱がたてられている(写真左上)。屋敷跡の一角に「那賀川町立歴史民俗資料館」があり、平島館の大甍が公開展示されている。
JR牟岐線阿波中島駅の南西約100メートルのところに「西光寺」(写真左下)がある。山門をくぐると境内の左手に、室町幕府第10代将軍義稙、初代平島公方義冬、平島館から上洛し座位した第14代将軍義栄(よしひで)の五輪塔が昔日を偲ばせている。参道の右手に歴代公方とその一族の墓所がある。累々と並ぶ五輪塔の彼方から、阿波公方の無念の声が聞こえるようである。
初代平島公方義冬のころ、土佐の長曽我部元親が阿波へ侵攻し、義冬の擁立者・三好氏が滅亡するなど義冬の身辺は急をつげたが、元親は公方の所領を保証するなど公方家の権威に敬意を表したのだった。しかし、江戸期になると、阿波藩主蜂須賀氏は、公方の禄を減じ、第4代目公方義次の名を「平島又八郎」、第7代目公方義武にいたっては「平島熊八郎」と称えさせるなど、一貫して公方の権威を貶める策をとりつづけた。第9代目公方義根の怒りはついに極点に達し、1805年(文化2年)、義根は平島を後にして洛中へと旅立ったのである。−平成15年4月− |