久米通賢−東かがわ市引田−
  播磨灘の南方、四国・引田の海岸が緩やかな弧線を描く。 引田は、古くは「駅」が置かれた官道の宿場町。港に突き出た城山には引田城が築かれ、諸将が陣取った。天正15年(1587年)、讃岐国は豊臣秀吉の家臣・生駒親正の所領となり、 親正は最初、引田城を讃岐の治城としたところ。引田は城下町の雰囲気が残る町。小梅川の扇状地に開けた港町。江戸期には地の利を活かし醤油や讃岐三白(砂糖、綿花、塩)などの積出港として栄え、諸国の廻船が出入りする東讃第1の港だった。
  港に吹く風は、出帆のいざないの風として人々の生活を支える風だった。引田の廻船は、大坂は無論、遠く日本海沿岸の港、港に回航し、庵治や塩飽、仁尾などの廻船とも大いに張り合ったのである。
 引田はまた、先取の気鋭に充ちた土地柄。近世塩田の発祥地である。引田の入浜式塩田の普及は讃岐塩業の隆盛をもたらし、その生産量は日本一にのぼりつめた。また、引田は、海水魚の栽培漁業の発祥地でもある。安戸池で行なわれたハマチ養殖は、日本の漁業に革命的な影響を与えた。
  これらの偉業は、文政12年(1829年)、入浜式塩田を完成させ坂出塩田を拓いた久米栄左衛門通賢(写真左)とハマチ養殖の考案者・野網和三郎翁の功績によって成し遂げられた。
  通賢は引田の馬宿に生まれ、入浜式塩田の完成や伊能忠敬に先立ち自作のトランシットやレーベルを用いて測量した讃岐の近代地図の作成、扇風機や撃発式鉄砲ピストルの発明など土木、測量、建築、火器などに長けた万能の科学者であった。和三郎翁は昭和初期、安戸池でハマチの養殖を手がけ、自然任せの漁業から計画的な栽培漁業を確立した人だった。引田の両先人とも自らの名声の高揚に奔走することもなく、蓄財などには無縁の清廉さを備えた人だった。
  通賢は、坂出の塩田開発を藩に建白し、普請奉行となり東西大浜に潮の干満を利用した入浜式塩田を完成させている。家計を顧みることもなく私財までも投げうち極貧に甘んじ塩業の振興に生涯をかけた人だったと伝えられる。坂出の人々は、通賢の死後も遺族に礼を尽くしたという。昭和9年常盤公園の中腹に建つ塩竃神社の境内に小社が建立され、境内の一角に通賢の銅像(写真上右)が建てられている。坂出の通りに「通賢通り」の名が残り、旧宅は四国村に再建(写真上左)されている。志度の平賀源内の旧宅とともに郷土の科学者宅がいずれも現存するのはまったく稀有である。
古川庄八
  幕末期における塩飽諸島の人々の活躍は顕著である。日米修好条約批准のため独力で太平洋を横断し渡米した幕府使節団の警護船「咸臨丸」の水夫、火夫の大半は塩飽出身者が占めた。文久年間にオランダで造船技術を学ぶため渡欧した留学生を導き、喜望峰沖を通過した水夫・古川庄八も塩飽(瀬居島)の人だった。庄八は帰国後、幕府と縁の深い塩飽の人らしく函館などで官軍と戦い、後に横須賀造船所監督に就任し大正期まで生き天命を全うした。享年83歳。水軍魂を生涯失わず、日本の夜明けを懸命に支えた人だった。
  本島(ほんじま)の東海岸・新在家海岸(写真)に立つと、瀬戸大橋の斜張橋が眼前に迫る。その下を商船が行き交う。いつの日か、塩飽の人々はこの浜に立ち、親や子の航海の無事を祈ったことであろう。