向山周慶
向良神社  讃岐三白のひとつ「砂糖」の精製開発の功労者向山周慶は現在の東さぬき市白鳥町の人である。もう一人の功労者・関良助は薩摩(奄美大島)の人。周慶の生誕地白鳥に、その名も高松市松島に所在の神社と同じ「向良神社」に二人が祀られている。
  白鳥の向良神社(写真左)は国道11号線「湊バス停」の東から山手に少し入った細道沿いにある。土地の人は「サトガミさん」といっている。バス停脇に周慶の生誕地跡、神社の手前に良助の墓がある。生まれも育ちも違い、国内移動すら厳しく規制されていた江戸期に、二人を結びつけた因縁とは何だったのか。その経緯について、白鳥・向良神社の碑文は次の通り説明している。
(碑文)・・・五代藩主松平頼恭は・・・製糖技術の開発を医師池田玄丈に命じたが成功せず病没した 玄丈は安永八年弟子の向山周慶に製糖技術の完成を私的に委託した その後周慶が京に遊学した時懇意と成った薩摩の医生某から天明八年に製糖技術の口伝を受け砂糖精製の研究に日夜没頭した その頃奄美大島の当盛喜と言う人が四国巡礼の途中湊川畔に差し掛った時病に倒れ難渋していたのを兄向山政久に助けられ医師の周慶が懇切鄭重な医療を行い九死に一生を得て喜び帰藩した ・・・当盛喜(関良介)は周慶の恩に報いんと後日薩摩藩の国禁を破って甘藷の種茎を弁当行李の底に隠して再度来藩し周慶に手渡して近屋に永住した それより翁を助けて刻苦勉励し寛政二年粗糖の製造に成功してここに初めて讃岐の実業製糖が民間の力で発祥した かくして寛政十年白砂糖が大阪市場に出荷されさらに・・・享和三年遂に氷糖紫糖霜糖の絶品を製出する独創的な技法を開発した・・・(岡本孝撰文)

  讃岐の砂糖は二人の功労によって雪のように白く味のよい和三盆として知られるようになり、今日に伝えられている。江戸期の最盛期には、大坂市場で商いされた砂糖の6割は讃岐産だった。
  サトウキビは引田から白鳥、津田に至る地域が讃岐の主産地であったが、高松藩の産業政策によって高松市内の花園町や坂出などに及び県下で広く栽培された。
  サトウキビは牛2頭に引かせ臼で搾られた。白鳥のJR三本松駅前の巴堂菓子舗に当時の臼が展示されている。四国民俗博物館に砂糖じめ小屋が移築保存(坂出で使用されていた建物)されている。−平成17年−
野網和三郎−東かがわ市引田−
野網和三郎銅像
安戸池
安戸池
 播磨灘の南方、四国・引田の海岸が緩やかに弧線を描く。
 引田は、古くは「駅」が置かれた官道の宿場町。港に突き出た城山に引田城が築かれ、諸将が陣取った。
 天正15年(1587年)、讃岐国は豊臣秀吉の家臣生駒親正の所領となり、親正は引田城を讃岐の治城とした。引田は今なお、城下町の雰囲気が残る。 小梅川の扇状地に発達した市街は、河口に開けた港町。大坂に近く、江戸期には地の利を活かし、醤油や讃岐三白(砂糖、綿花、塩)などの積出港として栄え、諸国の廻船が出入りする東讃第1の港だった。
 港に吹く風は、出帆のいざないの風として人々の生活を支える風だった。引田の廻船は、大坂は無論、遠く日本海沿岸の港、港に回航し、庵治や塩飽、仁尾などの廻船とも大いに張り合ったのである。
 引田は、先取の気鋭に充ちた土地柄。近世塩田の発祥地である。引田の入浜式塩田の普及は讃岐塩業の隆盛をもたらし、生産量は日本一になった。また、引田は、海水魚の栽培漁業の発祥地である。安戸池(写真上)で行なわれたハマチ養殖は、日本の漁業に革命的な影響を与えた。
 これらの偉業は、文政12年(1829年)、入浜式塩田を完成させ坂出塩田を拓いた久米栄左衛門通賢とハマチ養殖の考案者・野網和三郎翁(写真上)の功績によって成し遂げられたのである。和三郎翁は昭和初期、安戸池(写真上)でハマチの養殖を手がけ、自然任せの漁業から計画的な栽培漁業を確立した人である。自らの名声の高揚に奔走することもなく、清廉さを備え、口癖に「魚を愛せよ」と平易な言葉で栽培漁業の精神を教えた人だったと伝えられる。
 今日、栽培漁業は日本に限らず広く、海外においても行なわれるようになり、漁民の生活を支える一大産業に成長した。こうした繁栄の陰に、僅か周囲4キロメートルほどの安戸池で、40年余栽培漁業にかけた先人がいたことを忘れてはならない。−平成16年−