塩飽諸島(本島)−丸亀市−
 備讃瀬戸は瀬戸内海でもっとも狭い海峡。海峡に浮かぶ本島(ほんじま)、牛島、広島、手島、与島など28島が塩飽諸島(しわくしょとう)を成し、瀬戸内の多島美を極める。諸島を縫うようにして、瀬戸大橋が四国と本州を結ぶ。眼下の島々は塩飽水軍の島々。歴史の彼方に、武装し或いは帆をかけ瀬戸内を縦横に航行した船影が見えるようである。
 塩飽諸島は丸亀からフェリーで30分余。備讃瀬戸のほぼ中央部に周囲16キロほどの本島が浮かぶ。塩飽水軍が本拠とした島だった。備讃瀬戸は軍事的、経済的にも国家の命運を左右する重要な海域。藤原純友の乱後、朝廷やときの政権は重要海域を本拠とし航海に長けた塩飽水軍を味方につけ、制海権の維持に躍起となったのである。 
 源平合戦において、平氏は屋島の前衛に塩飽水軍を置いた。京都から九州に下った足利尊氏は内海の東上に際して塩飽水軍を前駆に置いた。豊臣秀吉に至っては朝鮮出兵に当たって塩飽水軍を総動員するなど大いに重用し、出兵後においても後方輸送業務に塩飽水軍を用いたのである。そのころ歌われた俗謡に次のようなものがある。
塩飽船かよ 君待てば 梶をおさへ 名乗りあいつや ややあにや 茶屋やにや ・・・<塩飽俗謡>
  塩飽塩飽諸島には将軍からいわば辞令を受け統治に当たる大名は存在しなかった。塩飽諸島は、天領として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と治世が変わるごと朱印状(所領の安堵や許認可の書状)を得て、船方650人(船主、乗組員)によって領有(1250石)された。いわゆる大名、小名と同類の「人名」を得た塩飽の人々は、塩飽諸島の統治について周辺雄藩の支配を受けることなく、水軍を率い御用船方として軍役に就き備讃瀬戸の往来船の監視などに当たる一方、海運業を営み島に巨万の富と文化をもたらしたのである。
 寛文12年(1672年)、新井白石をして激賞せしめた西回り航路の開拓は、海運史上における塩飽水軍の金字塔であろう。河村瑞軒の推挙を得て、塩飽水軍は西回り航路の御用米の廻船を独占的に行うようになる。300〜400艘の船を持ち、米や砂糖、塩などを遠く北海道にまで搬送し大いに繁栄した。奥州の米を海路、江戸に搬送することによって、江戸府中の食料の安定ばかりか東北地方の農業振興にも大いに貢献することになった。むろん江戸城の修築や大坂の陣、島原の乱等風雲急を告げる有事の際には、御用船方となって幕府への忠勤に励んだのである。僅か6平方キロの本島に実に24の寺院と11の神社が建ち維持し得たのもこの特異な水軍の富と文化故であろう。
 塩飽の廻船は、乗組員の操船技術に加え、比類のない堅牢な造船技術によって支えられていた。時化に滅法強く納期に荷が遅れることはなかったと島の人々は語る。汽船の登場によって島内の笠島にあった造船所は姿を消し、大方の船大工は寺社の建築大工等に転じていったのである。
■ 本島に「塩飽勤番所」(写真左下)が残る。番所は、4名の「人名年寄」によって運営され、江戸期を
塩飽勤番所
本島年寄り3家の石塔
通じて幕府の命を受け御用に当たったいわば塩飽水軍の指揮所であった。年寄りは後に世襲された。島に年寄り3家の石塔が残る(写真左下)。3メートルを超える石塔を見ていると、やはり島の富と文化を意識してしまう。これほど大きなものは初見である。直島の高原氏墓標群や仁尾の道明寺などに、少し規模は異なるが同様式の立派な石塔がある。
■ 島の北側に瀬戸内に面して笠島という集落がある。13世紀初頭、法然上人が讃岐に流される途中、逗留した集落。専称寺で浄土宗を説いた放念だった。江戸期には海運業で栄えた港町。町並みに城下町の風が残る。集落内をメインストリートであるマッチョ通りが東西に通じる。道路は僅かに湾曲し、通り沿いに江戸期から明治期にかけ造られた格子やムシコ窓のある家屋群が美しい町並みを形成する。通りの出合はT字路又は食い違うように造られ、あえて見とおしがきかないよう計画され、攻めにくく守りに堅い町造りに配慮されている。これもまた富を蓄え、敵の攻撃に晒されやすい笠島の知恵だった。
  平時は海運業に従事し、有事に軍船を率い馳せ参じる塩飽水軍は、幕府にとってまったく頼もしく無視できない存在だったに違いない。水軍はまた、海上における知恵ばかりでなく世上の風にも敏感だった。家康が関が原で勝利すると、諸大名を差しおき家康の陣に駆けつけ、いち早く戦勝の祝辞を述べたのは塩飽水軍だった。いたく感激した家康は、朱印状を与え秀吉の治世同様に塩飽諸島の領有権を保証したのである。以降、特権を得た塩飽人名の人々は、幕府への忠義を忘れることなく、明治維新に至るまで大いに活躍し島に繁栄をもたらしたのである。
  江戸期に隆盛を極めた金毘羅詣でもまた塩飽水軍の力によるところ誠に大なるものがあった。塩飽の廻船は、全国の津々浦々に情報も運ぶ船だった。寄港地、寄港地で金毘羅詣でを大いに吹聴したのである。
 多度津町立資料館に宝暦年間(1755年)に塩飽諸島の高見島八幡宮に奉納された弁才船(千石船、縮尺10分の1)が展示されている。当時の塩飽船を知るよい資料と思うので足を向けられるとよい。
■ 興味深い話がある。備讃瀬戸の瀬居島沖に「かなて」と呼ぶ漁場がある。鯛や鰆がよく獲れる漁場であるが、塩飽領と高松領との境界がはっきりしなかった。ついに高松藩は幕府に提訴したが、大岡越前守忠相が加わった評定所(現在の最高裁)の判決は、周辺海域の境界を定めた上、従来通り「かなて」を塩飽と高松の双方の入会(共同操業水域)にするというものだった。判決は現在も守られているという。高松藩をもってしても塩飽の権益を差配できなかったエピソードである。
  評定所は、平易な表現で判決を下している。勤番所に背丈ほどもある裁許書(判決文)が掛けてあるのでご覧になるとよいだろう。

 幕末期における塩飽の人々の活躍は顕著である。開国後、わが国最初の洋式軍艦である鳳凰丸、朝陽丸等の水夫の過半数は塩飽出身者で占めた。分けても万延元(1860)年、日米修好条約批准のため独力で太平洋を横断し渡米した幕府使節団の警護船「咸臨丸」の水夫、火夫の大半は塩飽出身者が占め、未曾有の快挙を成し遂げたのである。文久2(1862)年には、幕府の命によりオランダで造船技術を学ぶため榎本武揚など15人の留学生を乗せた船を導き、喜望峰沖を通過した水夫・古川庄八も塩飽(瀬居島)の人だった。庄八ほか1名の塩飽出身者が船に乗り込んだが、庄八は帰国後、幕府と縁の深い塩飽の人らしく函館などで官軍と戦い、後に横須賀造船所監督に就任し大正期まで生き天命を全うした。享年83歳。塩飽水軍の魂を生涯失わず、日本の夜明けを懸命に支えた人だった。
  明治期になると、塩飽諸島の人々は、粟島に村立海員補修学校を建て海員養成を行った。後に、学校は、国立粟島商船学校となり、先の大戦後は国立海員学校(写真左)となり海運業界に人材を供給し続けた。国立粟島商船学校は、昭和62年、惜しまれつつその長い歴史を閉じた。
  本島の東海岸・新在家海岸(写真右上)に立つと、瀬戸大橋の斜張橋が眼前に迫る。その下を商船が行き交う。いつの日か、塩飽の人々はこの浜に立ち、親や子の航海の無事を祈ったことであろう。-平成15年7月-