熟田津(三津浜)−松山市− |
熟田津に 船乗りせんと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな <万葉集 額田王> |
万葉集に、熟田津に船乗りせんと月待てば・・・のよく知られた歌がある。斉明7年、百済救援のため新羅遠征に向かった斉明(皇極)天皇が四国の熟田津に停泊したとき、額田王が詠った歌と題詞にしるされている。しかし、左注に斉明女帝の御製とする伝えがあるともしるされており、この歌の作者について諸説がある。作者の伝承があやふやな作品は、題詞と左注で作者が異なるのである。同様に、熟田津の故地についても諸説がある。
斉明天皇に従った額田王はそのころ18、9才とみられる。額田王説は、斉明天皇の意を体して額田王がいわば御言持ちして詠ったものとみる。軍が筑紫に船出するときの情景を詠ったものであるが、この歌はやはり左注のとおり斉明天皇の御製と思いたい。女神は二人といらないだろう。斉明天皇は記紀に御製歌が伝わる歌人であり、額田王が詠わなければならない必然性に乏しいように思う。
熟田津の故地については、今日の堀江としたり、古三津であるとしたり、はっきりしない。地形などは歌が詠われた7世紀当時と異なるところもあるだろう。古三津はいま、住宅地のなかに埋もれ往時の津の姿を思うことはできないが、古三津こそ熟田津ではないかと思う。
古三津の入口は今日の三津浜(写真上)のあたり。深く入り込んだ港は、波静かで軍船を係留し、物資の補給処としての条件に恵まれている。明治39年に高浜港、昭和42年に松山観光港が開港。松山の港は三津浜の北に整備されたが、三津浜は藩政期の要港であり、明治期を通じ松山の玄関口であった。
明治16年、16歳の正岡子規が「東海紀行」で「・・・送客皆船中ニ来タリテ余ヲ送ラレタリ。・・・」としるした港は三津浜。明治28年、夏目漱石は、「坊ちゃん」で三津浜沖で本船から小舟に乗り移って上陸し、三津駅で軽便鉄道(坊ちゃん列車)に乗った様子を活写した。明治28年、国木田独歩が「忘れ得ぬ人々」で描いた港も三津浜だ。今日においても、三津浜は海が荒れると避難する近在の船も多い良港だ。灼熱の夏の日、三津浜の湾口から滑り出す船がみえる。−平成16年7月− |
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