広屋の大石−伊香郡木之本町山梨子− |
琵琶湖の最北部に山梨子(やまなし)というささやかな集落がある。伊香郡木之本町の西部に当たり、険しい山塊が湖岸に迫るところである(写真左)。琵琶湖の水位の変動は、集落の人々の大きな関心事であったに違いない。集落のはずれに、通称「広屋の大石」(又はヘビ石と通称)と呼ばれる大きな石がある。地元の人々はこの石によって琵琶湖の水位の変動を知ったという。横井孫右衛門の記録「年々萬日記」によれば、寛保3(1743)年、琵琶湖の水位は石の頂点まで9寸(27センチ)に迫り、明和5(1768)年には8寸5分にまで迫ったという。大雨が続くと琵琶湖の水位は、平水時との差が1メートル前後にまで達することががしばしば生じたようである。ところが、琵琶湖水の出口は瀬田川(宇治川)のみであり、かつその下流部に京阪神の大消費地が展開することは古代から変わらない。そうすると、湖国の人々は、その周辺の田畑や家屋敷の保全上、水位の上昇を望まず、水位が高くなると瀬田川の浚渫等排水強化の施工を為政者に求め、一方京阪神の人々は水害対策上、瀬田川の浚渫等に異論を唱え、上下流の利害が真っ向から対立することになる。特に、近世に至り、瀬田川が巨椋池から分断されると淀川水系における洪水の調整機能が減退し、藩政期にはしばしは下流部で水害被害が発生するのである。藩政期になると、幕府は新田開発を大いに奨励し、私領の開拓者に年貢の減免などの特典を付与したから琵琶湖周辺において大いに開拓が進んだ結果、湖水の水位低下をはかるため瀬田川の浚渫が為政者の喫緊の課題であり続けたのである。寛文10(1670)年、延べ14万人余の人夫を投入し勢多橋上下流が浚渫され、その後もしばしば浚渫が繰り返され、、寛政(1789〜1800)年間には都合4回にわたって浚渫工事が施工された。琵琶湖の水位は下がったが、ついに寛政4(1792)年、瀬田川下流部にあたる摂州島上郡及び同島下郡66箇村の農民らが、湖岸の開田面積の3倍に当たる熟田を失う被害が生じたと訴え出て、瀬田川浚渫工事の差し止め訴訟へと事態は進展した。こうした河川上下流の住民の治水・利水上の利害対立は、大宝令以来の基本精神を踏襲した旧態ではぜんぜん解決の糸口も見出しえなかった。今日の河川法制をみるまでにはなお多くの犠牲と時間の経過を要したのである。
しかしまた、琵琶湖の水位安定に知恵者がいないわけではなかった。平清盛は琵琶湖水を敦賀(日本海)に通わしめる「琵敦疎水」の発案者だ。清盛には、商才もあったから音戸の瀬戸の開削と似たような着想であったかと思うが、実現に到らなかった。その後も幾たびか疎水計画が練られているが、享保(1722)7年に松平伊豆守及び酒井修理太夫に提出された願書などが西浅井町に保存されていて、なかなか面白い内容になっている。発案者は、御塗師
蒔絵師 触頭、御糸師、御経師を名乗る5名。京都の御用商人が手広く事業を興していたのだろう。商人らは、塩津から敦賀まで5里(約20キロ)の水抜きの川を掘り、瀬田川の浚渫によって湖水の水位を2尺(約60センチ)下げ、湖岸に15,6万石の新田開発が可能なこと、下流部の宇治川、淀川、淀川河口部をそれぞれ浚渫し治水と開田を進めるべきこと、併せて新川の開削や疎水の舟運の振興を図るべきことなどを提言し、それらの事業を「私どもに仰せ付けください。」と如才がない。願書は治水と利水、農業や運送業の産業振興と税の増収対策にまで及んでおり、近畿地方におけるいわゆる淀川水系総合開発整備計画たる商人版の第1号ともいうべきものでなかなか意欲的である。願書の写しが「北淡海・丸子船の館」(伊香郡西浅井町大浦)に展示されているので、参照されるとよい。
明治期以降、瀬田川に設けられた「南郷の洗堰(あらいぜき)」において、琵琶湖水のコントロールが総合的に行なわれるようになった。特に、集中豪雨期或いは渇水期にその機能を発揮し続けている。私たちが世界に自慢できる河川管理施設の一つであろう。また、南郷の洗堰に立ち、淡海の「広屋の大石」に思いをはせる機会があってもよいだろう。−平成21年6月− |
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