平清盛と音戸の瀬戸−呉市見晴町−
平清盛像 音戸の瀬戸の日迎山高烏台に平清盛の銅像が建っている。沈む太陽を中天に招き返し、音戸の瀬戸を掘削したという伝説にちなんだもの。清盛48歳の像である。作者は林健。
 瀬戸内海は平家ゆかりの海。天平15年(743年)、開墾地の永久私有が認められるようになると、公地公民の土地制度を基本とする律令国家はしだいに変質し、私領(荘園)の荘官や国衙領の郡司などが武士化していく。清盛はそうした時代の武士団の棟梁であり、賜姓皇族を出自とする。平氏は、伊勢・熊野沿岸からやがて瀬戸内海に進出し、日宋貿易にも関与し冨を蓄えた。清盛は、自ら安芸守、大宰大弐を務め、後々平氏一門を大宰府に配置するようになる。日宋貿易に大いに関心を示していたのである。 平家物語は、久安2年(1146年)、清盛が高野山参詣の折、霊夢によって厳島神社を造営するに至ったと説く。厳島神社は、もともと郡司を世襲する佐伯氏によって奉祀されてきた社である。両者を結びつける何かの状況が生まれたのだろう。
 瀬戸内海の中心部をなす厳島神社は、日宋貿易に興味を示した平氏が帰依するのに相応しい地理的条件を備えている。清盛など一門の厳島参詣がしばしばおこなわれた。承安4年(1174年)には後白河法皇と建春門院が、治承4年(1180年)には高倉上皇と建礼門院が厳島に幸しているのである。平家納経はそうした平氏の厳島信仰の極点を示す遺物であろう。
 音戸の瀬戸は、平氏一門の厳島神社参詣の便のため開削されたといわれる。清盛の施政下の最大の難事業であった。京都から海路で下向すると厳島まで1週間ほどの旅程。上皇や女御或いは自らの身の負担を考えると、いわば厳島バイパスの掘削は、清盛の執念の事業だったに違いない。
 おごれる者は久しからず。全盛期には全国66カ国中30余国の国司に一門の者を任じた平氏も、一の谷、屋島で敗退し、文治元年(1185年)3月、遂に壇ノ浦の藻屑と消えるのである。治承5年(1181年)、病を得た清盛が瞑目してから4年後の滅亡だった。清盛64歳。−平成18年4月−