来目皇子−羽曳野市はびきの3丁目− |
羽曳野丘陵の小高い丘に来目皇子の墓がある。付近は住宅地となっていて狭い参道を十数メートル行きはじめてそこが墳墓と気づくほどひっそりとしたところに拝所がある。
推古天皇の10(602)年、撃新羅将軍に任じられ、神部や国造、伴造など軍衆2万5000人を授けられ、筑紫の嶋郡に駐屯した来目皇子は、翌11(603)年、病を得て駐屯していた志摩から出撃しないまま薨去。
来目皇子の薨去に伴って中央から土師連猪手を遣わし、周芳の娑婆(さば)で殯(もがり)の後、河内の埴生山の岡の上に葬ったと、日本書紀はしるす。陵墓一隅抄などにその所在がしるされ、当地で塚穴と称されていた古墳(上円下方墳、一辺約45メートル)が来目皇子の墓に比定され、宮内庁によって管理されている。
来目皇子の薨去後の顛末は日本書紀にしるされている。来目皇子の後任として征新羅将軍に任じられた当麻皇子。皇子は新羅に向かったが、妻舎人姫王が明石で薨じ、そのまま大和に引き返し、再び出征することはなかった。
対新羅政策は、ヤマト王権の海外進出にともなって生じた最大の課題であり続けてきた。加えて、筑紫は早くからヤマト王権と宗像一族との親密な交流があったとみられるものの、磐井の反乱に象徴される独立国的な色彩が消えてはいなかった。当麻皇子の帰参、出撃の中止なども国内の政治状況下での判断であったのかもしれない。
しかし、日中の外交文書に残る推古天皇の摂政聖徳太子の外交は、隋の皇帝煬帝の朝鮮半島への野望を揺さぶるものであった。国軍など統治組織が未成熟で氏族頼りの時代に、兄弟である来目皇子や当麻皇子を前線に送ってまでも新羅を討とうとした太子。煬帝の得心に反するばかりか、帝国内外の属国の常識を超えたものであったろう。太子の薨去後、数十年を経た西暦663年、日本は、白村江において唐と新羅の連合軍に狙撃され大敗を喫し、半島から叩き出され、その後の朝鮮半島政策に大きな影響をこうむることになったのである。
炎天、燃えるような日、蝉の声が寄せてはひく怒涛のように聞こえる。その潮音に涙する皇子こそ、志摩半島の高みから玄界灘をのぞむ病を得た来目皇子であったにちがいない。 |
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