奈良
海石榴市−桜井市金屋−
 桜井市に金屋というところがある。大和川の上流で泊瀬川が平野にひらけ扇状地をなしている。
 河畔に立つと、ささやかな川の上流に忍坂山(おっさかやま)がよい姿で陰口(こもりく)におさまっている。
 金屋は、奈良盆地の東麓を南北に結ぶ「山辺の道」、東に延びて伊勢に通じる「初瀬道」、南の飛鳥から「磐余(いわれ)道」、西から「山田道」などが入り込み四通八達の道が交合するところだ。
 泊瀬川は大和川となって大阪湾に注ぐ。河口部の難波津は、大陸文化の上陸地。そこから大和川を遡り、亀の背を越え大和で大陸文化が花開いたのだ。
 金屋は古くは海石榴市(つばいち)といわれた歴史のある土地。三輪山の麓に磯城瑞籬宮や磯城嶋金刺宮など宮殿が営まれ、街路には椿が植わり人々が行交い、そこは八十(やそ)の巷をなす日本でいちばん繁華なところだった。
 海石榴市はまた百済の聖明王の遣使が上陸し、釈迦仏金銅像などを携え磯城嶋金刺宮に向かったところだ。飾り馬75匹を遣わして額田部連比羅夫が礼辞を述べ、遣隋使小野妹子に伴われ来朝した隋使裴世清と下客12人を迎え、武烈天皇が平群鮪と影姫を争ったのも海石榴市の巷だ。そこでは男女が寄り合って歌垣が交わされたこともあった。
紫は 灰指すものぞ 海石榴市の 八十のちまたに 逢へる児や誰  <万葉集 3101>
たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか     <万葉集 3102>
 海石榴市はいまわずかに海石榴市観音にその名をとどめるのみである。泊瀬川は田舎の小さな河川に過ぎなくなった。しかし今、また海石榴市は「山の辺の道」の遊歩の起点として人々が集うところだ。
磯城瑞籬宮 金屋の道標

聖徳太子の外交
日出處天子致書日没處天子無恙伝々
 大業3(607)年、小野妹子は隋に渡り、国書を煬帝に奉呈するのであるが、煬帝は標記の書き出しで始まる日本の国書に不快を示したと隋書は伝えている。このときの通事は鞍作福利。遣隋使の出船は、倭王武の遣使以来、約1世紀余も途絶えていた中国との国交を再開し、東アジアにおける日本の政治的地位を表明するという摂政聖徳太子の意図の表れだったのだろう。妹子派遣の7年前にも、日本は遣隋使を派遣しているが、意図は不詳。百済や新羅から朝貢を受ける国として、朝鮮半島に関心を示していた隋を牽制し、国情の視察ほどのものであろうか。
 妹子が奉呈した国書は、中国の体面をいたく傷つけたことであろう。こうした日本の国書がストレートに煬帝に伝わったことは、当時としては稀有なことであったに違いない。すなわち中国は、むやみに体面を重んずる国であったから、蕃夷とみなされたされた四周の国々は、外交を司った鴻臚寺などで中国官吏と接触をもち、通りがよいように示しあわせて上表するのが常であった。
 日本の外交は、中国や朝鮮半島諸国と交通を持ち始めたころから渡来人によって行われた。倭の五王の時代以降においても訳語、史など渡来人によって行われていた。当時の王や豪族は海外交通によってもたらされる財貨や技人の招致に関心があるのであって、対中国、対日本宛の上表の内容などには余り関心もなく、渡来人のロビング活動によって国交の円滑化が保たれていたのである。ときに菟道稚郎子が高麗の上表の無礼を発見することはあっても、識字率も高くない時代に自国の指導者層に中国官吏などとの水面下の交渉経過や上表の内容を覚られることもなかったことであろう。
 対中国外交について、中国の体面が保たれるよう上表文が作成された。四訳館に保存されていた明代の諸国の上表文などから、まず中国官吏が原案を示し、それを自国語に直訳して上表するというようなこともあったらしいのである。そのような、中国の伝統的な外交手法に対して、多分、聖徳太子自らが筆をとり起草したとみられる国書は、渡来人によっても中国官吏によっても修正されることなく煬帝の目に触れたのである。驚いた煬帝は、朝廷を宣諭させるために妹子につけ裴世清を日本に向かわせた。朝廷は海石榴市に飾り馬75匹を遣わし礼を尽くして丁重に裴世清一行を迎えた。このとき日本から隋に送った国書に「東天皇敬白西皇帝」とあって、太子は対等の詞を使い、日本の立場を崩すことはなかった。以来、日本は、遣唐使船をしばしば中国に送ったが、他国と異なり一度も上表を持っていかなかった。のみならず、多くの留学生を送り続け、中国文化を吸収して国家の礎を整えていくのである。同時に、渡来人を重用することはあっても、日本外交につきその自主性を重んじ、自ら外交の対等性、透明性等の範を示したのである。一旦、祖国を離れると母国との通信手段もない時代に、国書を改ざんしたり個人の判断で外交を行うこともなく大任を果たした妹子もまた傑出した人物であろう。当時の外交は端的にいうと渡来人による通訳外交であったが任をゆがめることのなかった鞍作福利の功績も妹子に劣るものではない。もっとも、帰国に際し煬帝から妹子に渡された返翰は、百済人盗まれたと報告され今日に伝わっていない。多分、返翰の内容が不平等であったから妹子の判断か太子の差配でそのような措置が下されたものであろう。加えて、煬帝は裴世清に国書を持たせているが、その書き出しは「皇帝問倭」とあるが、本来、「皇帝問倭」であったはずである。このことを天皇から問われた聖徳太子は、「帝」も「皇」も同様に重い字であると答えたことが太子伝にみえる。ともあれ、大業3(607)年の遣隋使派遣の顛末は、聖徳太子が政治家としても傑出した人物であったことを示すものであり、今日においても太子が尊崇される所以であろう。