月ケ瀬梅林−奈良市月ケ瀬尾山− |
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令和5年3月3日快晴。月ケ瀬に観梅行。正午過ぎに尾山展望所着。月ケ瀬湖(高山ダム)をのぞむ険しい斜面に梅林が連なり、眼下に月ケ瀬橋(アーチ橋)が霞んで見える。
月ケ瀬尾山一帯の梅は1万余株という。観梅の人波は大景に隠れ、グイスの声がどこからかきこえる。
月ケ瀬の梅林のはじめは笠置山で起った後醍醐天皇の倒幕戦争(笠置山の戦い)がきっかけ。時に元弘元(1331)年9月。笠置からほど近い月ケ瀬に逃げ延びた女官・園生姫が伝えた烏梅(うばい)にあるらしい。烏梅はいわば梅の燻製。紅色の染色、漢方、化粧品等の原料に使用され、最盛期の江戸時代には満山を埋め尽くすほど植樹され、烏梅が製造されていたというわけだ。
斉藤拙堂の「梅渓遊記」によると10万本(江戸時代)もの梅が植わっていたという。今は昔、化学染料の普及や梅生産地の拡大等によって月ケ瀬の梅は激減した。烏梅の生産農家も只今、1軒という。烏梅は鮮やかな紅色の発色材としてプロ染色家に欠かせないものであるらしい。
観梅の魅力はその本数を競うものではない。重畳をなす山々に或いは岩海、峡谷、畑、庭などに映るそれぞれの梅花を求め探勝するのもまたよい。古人の観梅態度もそうであったに違いない。
月ケ瀬はかつて「月瀬」とよばれ、文人墨客が杖を曳いた観梅の名所。江戸時代の儒学者斉藤拙堂は「月瀬記勝」(その一節に「梅渓遊記」がある)を著し、頼山陽(歴史家・思想家・文人)は漢詩文で月瀬を詠った。
拙堂、山陽はともに友人であった。山陽は詩吟「合戦川中島(弁性粛々夜川を渡る 〜)」の歌詞や日本外史の著者として知られる人。切れの良い漢文語調で万物を詠った。拙堂は儒学者らしく生真面目な表現にこだわった人で今日の観光パンフ向き。年はわずかに山陽が上の2人だった。
山陽の月瀬行は旧暦の天保2(1831)年2月。友人・拙堂から「月瀬記勝」の添削を頼まれ杖を曳いたものか。拙堂に負けじと徹底的に筆を入れてやろうと考えたのかもしれない。山陽は「非観和州香世界、人生可可説梅花」と月瀬を詠った。翌天保3(1832)年9月23日、京都で逝去。享年53歳。
拙堂は山陽の添削をそのまま「梅渓遊記」に載せ、本人の耕文と対比してみせている。この種の完本はないわけではないが山陽への謝意、追悼の思いがあったのかもしれない。あるいは山陽の直しはいわば観光パンフにそぐわないと思ったものか。両巨頭の意地の張り合いと感じとれなくもないが、真意はよくわからない。「梅渓遊記」は明治になっても刊行され続け月瀬指南書としてまた、月瀬梅渓が京阪神の都会からそれほど遠くなく、仙境への憧れや旅行熱も重なって大いにブレイクした証でもあった。
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尾山展望所から |
昭和44(1969)年、梅渓で親しまれた月ケ瀬・五月川に高山ダムが完成し、峡谷は月ケ瀬湖に変わった。ダム湖に沈む梅は事前に尾山展望所あたりに移植されたという。湖畔の梅林もよいものだ。新時代の月ケ瀬景観を現して美しい。
第二代加賀藩主前田利常公も月瀬を踏んだ武将の一人だ。利常は九州唐津の名護屋城で出生。辛酸をなめ尽くした加賀前田家第三代目当主。徳川家から本庄の名を賜わり準親藩の扱いを受けた加賀藩であった。しかし前田家は菅原道真を先祖とし「菅原」にこだわりつづけ、「本庄」を名乗ることはなく乱世を生きぬいた。
利常は徳川方として大坂冬の陣、夏の陣ともに参戦し、冬の陣で2万余の兵を率いたが敗れた。夏の陣では、徳川家康から岡山口(四条畷市)の陣で先鋒(後方は徳川秀忠)を命じられ、1万5千の兵を率い3千余の首級をとった。大坂城は落城。
利常は大坂から本国(加賀国)へ戻る途中、月瀬邑尾山(現奈良市月ケ瀬尾山)の真福寺に立ち寄り、同寺境内の尾山天神宮に「両天神宮 二千日成就祈願」を
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尾山天神宮 |
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満願碑 |
行った。満願になると元和7(1621)年3月、同神社に参詣し満願碑をたてた。言い伝えのとうり満願碑は発見されたという。
※ 尾山天神宮は明治17(1884)年、尾山展望所近くの現在地に移転
梅渓を見下ろす展望所近くに尾山天神宮はある。その向かいにくだんの満願碑が立てられている。満願碑発見の経緯の仔細は知る由もない。郷土史家が碑文の解析を行っていてその説明板が満願碑脇にある。
京都盆地と奈良盆地の東側山地の中央部は伊賀に近く、大坂から北国、東国へぬける近道が少なからずある。家康も大坂・堺から本国に戻る途中、遍照院(京都・宇治田原町)に立ち寄っている。
満願碑文の解析に当たった郷土史家は、「両天神宮」について、一つは当地の「尾山天神」、もう一つは金沢城内の尾山天神で月ケ瀬・尾山天神を勧請した分神と解されている。金沢城に確かに天神社はある。金沢城の元の名は尾山城である。
【碑文】
大和国添上之郡尾山邑
奉参詣 両天神宮二千日成就祈願祈所
元和7年醇三月吉日 |
一般的に「尾山」の地名由来はその端が斜面になったところを言い、月ケ瀬の尾山もそのようなところに立地している。加えて加賀前田家は既述のとうり菅原道真を祖先として崇拝し天神信仰が篤く支城等々の領内に天神社を祀っている。月ケ瀬から勧請した神ではないと思われる。
もう一つの天神は月ケ瀬・尾山天神社ではなく小松(城)の天神社ではないかと思う。小松城は関ケ原の戦いにおいて西軍に組した丹羽長重が徐封され東軍(家康方)の加賀藩初代藩主前田利長に与えらた城。その子利常は丹羽時代の一時期、人質として小松城で暮らしたことがある城。城の規模は金沢城をはるかに超えた。大坂の役当時、加賀前田家の城となって以来十数年の歳月が流れた小松城。前田家の常として小松城内に天神社を祀っていたのではないかと推察する。
夏の陣終戦後、論功行賞を気にかけない武将はいない。しかし加賀藩の事情は少し違っていた。加賀藩は100万石を超える石高日本一の大国。家康の政敵となりうる強国だ。利常は徳川秀忠の娘珠姫を正室に迎えているとはいえ、豊臣の次は加賀藩前田家かと亡国の妄念が脳裏をよぎっても何の不思議もない。
本国への帰路、奇しくも「尾山」を共有する天神社を発見し、弱冠22歳の大大名の心は踊ったのだろうか。尾山天神社に、加賀国を担う二つの城、金沢城及び小松城の安泰を両天神社になぞられ祈願したのだ。月ケ瀬・尾山は目立たない仙境。天神ゆかりの梅の里であるが故、安泰祈願を行っても徳川方の目に触れにくく、不自然ではない。やや飛躍の感なしとしないが、どうであろううか。
利常は大坂の役終戦後 家康から感状を得て案の定、四国(4国)へ移封の打診を受けている。それを固辞した利常。幕府は間髪を入れず一国一城制(元和元年9月)を発令し、大大名をつぶしにかった。小松城は廃城となったが利常とその重臣は奔走して移封は免れ、既存の版図は安堵された。利常の心痛は見事に払しょくされた。加賀国の安泰を見届け、尾山のどこかに満願碑を鎮め月ケ瀬尾山の産土神天神に謝念の趣をあらわしたのだろう。
寛永16(1639)年、小松城は再築を許可され利常の隠居城として再び整備された。城近くに小松天満宮が造営されたことは言うまでもない。−令和5年3月3日− |
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