遍照院の紅梅−綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷− |
宇治田原町の遍照院の境内で紅梅がほころびはじめた。幹周りは2メートルほどもあろうか、髄が溶けるほどに途方もなく長い間、紅梅は岳谷に早春の香りを放ち続けてきた。訪れた日、寺が建つ坂道をひとつ隔てた谷筋でフキノトウが二つ三つ、氷雨を浴びている。
当地の寒さが紅梅の開花時期を多少、遅らせている。このぶんではお水取りが終わるころ遍照院の紅梅は満開の気配である。
遍照院の創建は元亀元(1570)年という。寺は京大阪方面から信楽、伊賀に向かう幹線道の近くにあって、時に戦乱のあおりを受けることもあったようである。
天正10(1581)年6月2日未明、京都の本能寺に止宿中の織田信長が明智光秀の手にかかり自刃。豊臣秀吉は備中高松で水攻めを敢行中であったが主君の死を隠し毛利方と和議を結び、高松城から撤退。急旋回し同月13日には山崎街道に布陣し、光秀との弔合戦の戦闘態勢に入る。一方、堺見物をしていた家康は急遽、三河へ戻る。近江・大和路を避け伊賀越えを決断。その日のうちに守口、枚方を経て木津川を渡り、宇治山田の郷ノ口の山口城に入り昼食をとった後、遍照院に入り、信楽の朝宮、多羅尾を経て伊賀に到っている。そのころ遍照院は創建10年ほどの寺であったが、信楽に向かう幹道にごく近く、家康はここで態勢を整え夜間、一気に伊賀越えを敢行。三河へ戻ったのは6月4日だった。秀吉は山崎・天王山において明智軍を撃破、光秀の天下は僅か11日目で壊滅した。それから2年も経たないうちに、秀吉は天正11(1583)年信長の遺領の配分を端緒に勃発した賤ケ岳の戦を制し、信長の後継者としての地位を不動のものとした。秀吉と家康のかくも顕著な「動」と「静」の違いは命運を分け、秀吉は参議、権中納言を経て四国侵攻の最中の天正12(1984)年、ついに関白に任官され、四国に続き九州に侵攻。天下人の道を一挙に駆け上るのだった。このころ、家康は小牧の役、長久手の戦で秀吉と対峙し、長久手において秀吉の将池田勝入を破るなど着実に秀吉の対抗勢力の地位を築き、秀吉没後に関が原を制しやがて天下人となる。秀吉が成し遂げた本邦統治の基盤を一瞬にして手に入れた家康のその後の対応は家康らしく慎重に信長、秀吉がなした教訓を治世に活かし、徳川300年の歴史のもとを築いた。
天正10(1581)年6月2日、遍照院に逗留し伊賀越えの道を辿ったこの日が、家康の天下取の第一歩だった。遍照院の紅梅の満開も近い。−平成22年2月− |
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遍照院の梅 |
伊賀越えの道 |
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満開の紅梅 |
平成31年3月26日、遍照院を訪れると紅梅は満開。峡谷の段丘上にある寺は平地の紅梅よりだいぶ開花が遅くまた年どしの気候の影響をうけ満開日の予定が定まらず、なかなか気難しい麗人であるようだ。
寺を訪れた日、住職の奥方のお話によると、満開を少し過ぎたとの見立てであったが、素人目には大満開にみえる。家康が見たであろう新緑の紅梅は、年が改まるとこの高台から紅の光を放って徳川、明治、大正、昭和、平成と時代時代に彼岸の到来を告げてきたのだ。
もう1か月余で改元される。老木は渾身の力を振り絞って新時代にもまた美しく咲きつづけることだろう。−平成31年3月26日
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