奈良
万葉の菜摘−吉野郡吉野町菜摘なつみ
吉野なる夏実なつみの川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山かげにして 
      <万葉集 湯原王>
 吉野川の上流に吉野離宮の地と伝えられる宮滝がある。そこからまた1キロほど上流に「菜摘」という集落がある。吉野川が菜摘山の北側に大きく蛇行しその右岸にひらけたわずかな平地と山裾に人家が散在する。戸数にして70戸ほど。人々は山林経営とシイタケ、割箸などを生産し、生業とする。吉野川の清流にアユがヒラうち、菜摘山に昇る冴えた月はサクラとともに吉野のもう一つの絶唱であろう。そこはまた、宮滝離宮から少し足を伸ばした貴紳たちが、寂とした幽境に遊んだところなのだ。湯原王は天智天皇の子の志貴皇子の第二子である。この歌などは、皇子が得意とした優美な叙景歌の代表格といえるだろう。
 菜摘は、また謡曲「二人静(ふたりしずか)」の舞台となっている。菜摘という美しい名と幽遠な清流の景観からイメージされつくられたものであろうか。菜摘川(吉野川)で若菜を摘む女に静御前の霊がとりつき舞いはじめると、いつのまにか影の形の如くに静の亡霊があらわれ、二人の静が義経との悲恋を物語り、回向を乞うという幻想的な曲を生んでいる。菜摘からさらに上流に国栖(くず)というところがある。春の相聞歌に「国栖らが・・・」(下段参照)の歌が万葉集にみえる。国栖は「国栖の奏」の発祥伝説などからこの地方の先住民が住んていたところと考えられるが、相聞歌が歌われたころ「菜摘」を含む一帯が国栖の域内としてとらえられていたのではないか。そうすると、二人静の謡曲の場面設定がなぜ大和の「菜摘」であるのか、興味がわくところである。
国栖くにすらが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ 
                           <万葉集>
 湯原王或いは謡曲・二人静の時代に先行して、「菜摘」の川辺で若菜を摘む風が国栖の人々の間に存在したのではないだろうか。かつて吉野三神のひとつ子守勝手神社の若菜神事(1月7日)において、神人氏子が「菜摘」の川辺で若菜を摘み明神の御供(ごく)としていた。今日、子守勝手神社は焼失し、また若菜神事がいつころ途絶えたのかはっきりしないが、‘菜摘川の祭に見ばや芳野鉢 <維舟>’‘雪解風吹き渡る若菜神事かな <八重桜>’など江戸期の句があり、広く世間に子守勝手神社の若菜神事が聞えていた。若菜摘みの場所が菜摘に特定されたのは、国栖人がそこで若菜を摘む風が存在したことを示してはいないか。それはまた、古い時代に七種粥を進める唐制の正月行事が宮中や仏寺に施入される以前から、国栖人の固有の行事として若菜摘みが行なわれていたように思われる。 −平成21年2月−