由良川の支流八田川の上流の奥谷に高倉(吉美町)というささやかな集落がある。集落から2キロほど南(下流)に京都府下最大級の聖塚(方墳。5世紀)が築かれている。高倉は八田川流域のアガタの聖地であったのだろうか。
鎮守は「天一さん」(高倉天一大明神。以下「高倉神社」という。)と呼ばれ、今でも秋祭りなどは流域の里里の例祭として催行され古色を失ってはいない。
土用の最初の丑の日に斎行される「高倉天一さんの土用の丑祭」は高倉神社の大祭。令和2年7月21日、同社を参詣し、土用の丑祭りをみた。
神事は午前0時からはじまった。神殿での祀り、境内(大地主神社前)での清祓祭など神事がすすみ、宵宮の参拝者が途絶えることはない。夜が明けて午前8時ころから人出が急に増えはじめ午前中が参詣のピーク。社は腹痛にご利益があると伝え、参詣者は本願を祈り、スギ、イチイガシなどの喬木が天を衝き、五葉の笹が生える樹下をゆき境内社を巡る。季節にはイチリンソウ、イカリソウ、エビネ、キンランなど季節の山野草が奥谷に季節の到来を告げ、春夏秋冬、峻厳さも失わないこの社叢は丹波の白眉。大事にしたい自然遺産でもあるだろう。
一間四方の立派な唐派風の拝殿。軒周りの彫刻は目を見張るほど。高倉神社はこの地方の神社建築の手本になっているとも。
さて、「土用」は雑節のひとつで春夏秋冬、4回巡るってくるが今日では立秋前の土用(18日間(年により19日))に食養生と言って餅やシジミ汁を食べたり笹の葉を煎じ服用したりする風が西日本に残っている。
今年(令和2年)は7月19日が土用の入り。立秋(8月7日)まで19日間、土用は続く。天一さんの丑祭りは、土用の最初の丑の日(7月21日。期中に2回丑の日がある)に斎行される。丹波は例年、7月20日ころに梅雨が明け、丑祭りのころが一番高温、多湿になる。今年は梅雨明けが遅れかつ蒸し暑さも加わって体調を崩す人も多いのか宵宮に願掛けする人が絶えなかった。
高倉神社は遠い昔から奥谷に在ったと僕は思うが里人はなぜか無関心で、祭神高倉宮以仁王(後白河法皇の2子)一途である。当地は、平安時代に以仁王を奉じ源平合戦を闘った源頼政によって領有された。頼政が「宇治川の戦」に破れ宇治平等院で自決し、以仁王は奈良へ落ち延びる途中、光明寺辺りで流れ矢を受け薨去したと伝えられているが、実は頼政の領国吉美郷の兵士(12名)に伴われ、奈良とは逆方向の吉美郷に案内したと伝えている。矢傷を負っていた以仁王は治承4(1180)年6月、当地で薨去し、養和元(1181)年9月高倉に社を建立し、以仁王の御霊を移したという。
以仁王を当地に導いたものは丹波吉美郷の12士(名)。後裔は古くから講をつくり、丑祭りの日に12士をあわせ顕彰する。そう言えば勧進帳も主従13名。以仁王の都落ちの場合も主従13名。密かな都落ちの総勢は、従士の役割分担から最小限13名が必要だったのだろう。あるいは、頼政の時代が勧進帳の時代と合うので勧進帳を参考とされたとも考えられるが、地区に12士の後裔がおられるとのことで主従はやっぱり13名だったと考えねばならない。
以仁王は当地に多くの故事を伝えている。土用の丑祭りの日につく‘はらわた餅’、境内の樹下に自生する‘五葉の笹’、秋祭りに奉納される‘ヒヤソ踊り’などにまつわる故事である。はらわた餅は万民が腹痛から救われるよう、また手の平を開いた指の形をした五葉の笹は社叢で1枝を摘み取り自宅に祀って五臓の健康を得られるよう、矢傷を負った以仁王が願われた故という。土地の伝説や歴史になぞらえて寺社を喧伝する風は古来、よく執られた手法であるが、「はらわた餅」とはよくできている。参拝が済むと境内の社務所でお札をいただき、出店で餅を買う。摘みとった五葉の笹は枝下を半紙で包み、だいじに持ち帰る。ヒヤソ踊りの起源は、里人が以仁王の傷を癒(いや)そう、癒そうと願って笛、太鼓の伴奏で踊ったと伝えている。
祭りの日、境内ははらわた餅を求める人や、摘みとった五葉の笹をいただき行き交う人で賑やかだ。ご祭神も微笑んでおられることだろう。−令和2年7月21日− |