京都
撰原峠の子安地蔵−相楽郡和束町撰原−
撰原峠
石造地蔵菩薩立像
 京都府南東部に和束町という茶で聞こえた町がある。
 都が平城京から平安京に至る間、都は恭仁京紫香楽京等へと転々とする。恭仁から紫香楽への遷都は当時ようやく奈良から紫香楽(信楽)への道路が開設され実現し、そのルート上の町が和束だ。木津川の支流・和束川が大きく蛇行し切り立った山腹上に撰原という地区があり旧撰原街道が通じている。奈良から紫香楽に向かう旅人の歩いた道だ。今では和束川沿いに幹道が通じ旧撰原街道を通行する車はなく、わずかに茶畑の手入れに土地の農家が往来する程度でさびれた街道の趣である。
 この旧撰原街道の峠に地蔵菩薩立像がある。地元では子安地蔵と呼ばれる石仏である。加茂のわらい仏や上狛の山城大仏など相楽郡あたりにはよく知られた石仏がかなり濃密に分布する。これもまた、この地方が古代から近世まで、交通の要路にあって民間信仰の隆盛をみた証であろう。
 さて、撰原の子安地蔵像は、花崗岩に浮彫りされ、衣と袈裟をつけた単独像で像高26センチ、左手に宝珠を持ち右手は錫杖を持たず施無畏に印を結んだ古い形式。像の脇に「釈迦如来滅後二千余歳」と記銘があり、文永4(1267)年の造像である。我が国における地蔵信仰は奈良時代から存在したが造像例がなく藤原時代末期ころから隆盛をみて今日に至っている。造像も盛んになる。貴族社会で育たなかった地蔵信仰は大衆が力を蓄え、仏教に近づきはじめると急速に広まったのである。
 末法の起点は、解釈によりはっきしないが藤原資房の日記「春記」で永承7(1052)年と記されており同年が仏道者の常識となっていたのだろう。天変地変の続発や朝鮮半島での蒙古の動きなど人々の不安は極点に達したことであろう。撰原の地蔵菩薩はこの頃、僧実度を願主として造られた。六道に迷うものを救済する本尊として信仰を得たのだろう。また地蔵信仰は、延命地蔵、身代わり地蔵、とげぬき地蔵など種々の民間信仰の対象となって行く過程において、撰原の地蔵信仰も子安地蔵として信仰に厚みを増していったのだろう。−平成23年2月−