二月堂 竹送り(お水取り 松明竹送り )−京田辺市普賢寺− |
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令和2年2月11日午前時6時45分、零下2度、大御堂・観音寺の池に薄氷が張り、甲高いヒヨドリの声が古刹の朝を告げている。
今日は、お水取りに使われる「二月堂竹送り」の日。明け方から観音寺境内にテントが張られ、竹送り参加者の受付けが始まっている。竹の掘り起こしは、山城松明講社中の奉仕によって行われる。くだんの竹やぶは、寺の北西500メートルのところにあるらしい。
当地のタケノコは「普賢寺筍」としてきこえるところ。お水取りに使われる竹は、その先に取付ける直径4尺余の球形の松明を支える竹。「周囲1尺23寸、長さ4間ほどの根付き竹」という条件があり、竹の生育を見計らって掘り起こす。「真竹6年、孟宗竹は7年で枯れます。竹送りは毎年の行事。来年、再来年に掘り起こす竹の候補も決まっています。」と松明講社代表は話される。
午前8時ころ、松明講社中の案内によって参加者はくだんの竹やぶに到着。急斜面に立って200名ほどの者が見守る中、2本が次々と掘り起こされた。竹は参加者に担がれ「普賢寺ふれあいの駅」で小休止、大根炊きの接待があった。
午前9時ころ竹は観音寺境内に到着。他所で掘り起こされた竹6本とともに観音寺本堂前に並べられた。安全祈願の後、講社代表の案内によって、竹に観音寺住職の筆が入り、お水取りの寄進竹として蘇った。
参加者に担がれて観音寺門前を出た8本の寄進竹は200メートルほど往き、普賢寺川沿いの引継ぎ所でトラックに載せられた。
午前9時45分ころ、寄進竹は車に積み込まれ、東大寺転害門に向け旅立った。転害門で小1時間、「奈良お迎え式」が行われ、休憩の後、寄進竹3本は担がれ、残りの竹は大八車に乗せ登大路を往き、大仏殿参道に進み、午前中には東大寺二月堂湯屋脇まで運ばれた。旧態を崩さず、なんとも古風、壮大な行事が今なお続いていることにただただ驚くばかりである。
天平勝宝3年、東大寺開山良弁僧正の弟子実忠和尚が十一面観音悔過所すなわち今の二月堂を建立し、翌4年からお水取りの行法は始まった。以来、千二百年余、天平の大昔から一度も断絶することなく続くお水取り。全国の寺院の年中行事、修二会の始まりである。少々古いことでは驚かない京都人も脱帽の歴史と尊厳をもってこの行事は今なお、人々の支持を得て続いている。
3月1日から始まったそのお水取りのクライマックスは3月12、3日、童子の肩に担がれ長い廊下の石段を登って大松明は舞台に運ばれる。天秤棒のように曲がる20貫もの大松明が車輪のように回され、走る、走る!。二月堂は火の車の感があり、火の粉が滝の飛沫のように流れ落ち、散る。観覧の者は競って火の粉を被り、松明の燃え殻を拾う。近年、事故防止の観点から種々、対策が練られ、万全が期されるようになった。火の粉に歓喜するのもまた弘法大師のような名僧知識を排出したお水取りのご利益にすがりたい衆生の願いゆえであろう。
京田辺市普賢寺の竹送りは、大御堂・観音寺第一世が良弁僧正の高弟でお水取り(修二会)を始めた実忠和尚であったことや東大寺との縁からであろう。鵜の瀬の水送りに相通ずるものがある。
大御堂・観音寺の本尊、十一面観世音菩薩(木心乾漆像)は天平16(744)年安置と伝えられ、国宝である。東大寺二月堂本尊は二体安置されているとされるが、絶対秘仏として祀られ誰も見たことがないとされている。その十一面観音像のいずれかが観音寺の観音像とうりふたつではなないかと僕は想像もする。それほど観音寺の十一面観世音菩薩像を見る者をして美しく、気高く映る。何度見ても、感動を覚えないことはない。
お水取りが済むと関西に春がおとずれる。-令和2年2月11日-
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