京都
高蔵神社の春祭り−綾部市西坂町−
 由良川の支流・犀川の最上流部に高蔵神社が鎮座する。昔の丹波国何鹿郡内の西坂(にっさか)に在り、丹後国との国境のやしろである。祭神はタケノウチノスクネ。宮ヶ嶽の麓に鎮座して境内社が6社ばかりある。延喜式にいう何鹿郡12座中のひとつ高蔵神社はこの社であるという説がある。
 高蔵神社は西坂の厄神さんで知られている。
 平成22年3月13日、高蔵神社で祈年祭が行われた。勧学祭があわせ行なわれ、祈年祭の神事の後、小学校入学児童と中学校卒業生とが参加し、弓矢で「鬼」、「馬」と書いた的を射落とす弓の義(写真左)が行なわれた。
 祈年祭は五穀豊穣を祈る祭。年初めの予祝行事として行なわれるが、関西では御田(おんだ)祭を伴う祈年祭にあっては2月に行なうところが多い。高蔵神社のそれは勧学祭と結びつき例祭日は3月。おんだ祭は稲作の全過程を模擬的に演じることにより秋の豊作を予祝する春祭のひとつ。春先に祖霊が田の神として山のほうから降ってくるという観方から、春祭にその年の稲の豊凶を占ったり、厄神を追い払い五穀の豊饒を願ったりして、様々な祈願の形態をうんでいる。
 西坂の厄神さんでは、「鬼」を射ることにより万事に福の招来を期待するものだろう。「馬」の的を射る意味は難解であるが、馬駆け(競馬)神事のように馬はしばしば年占にあらわれることから、弓矢でそれを射落とすことにより学業成就などを予祝する意味あいもあるのだろう。もっと広く考えれば、小学校入学児童には氏子入りの儀礼でもあるだろう。京都府下には就学をもって氏子入りとするところが多かった。その際、弓射の儀を斎行するところもあった。
 田のあぜ道にフキノトウがでてオオイヌノフグリ、スミレなど咲き始めた。宮ヶ嶽ふもとのため池から流れ出る小川のせせらぎがきこえる。丹波の国の古いやしろでひっそりとよい祭りが行なわれている。-平成22年3月-

参考:御田植祭(手向山八幡) 子出来おんだ祭 住吉の御田

西坂の国境
 和銅3(710)年、元明天皇は平城遷都を宣し、都は平城(なら)に遷った。遷都から約3年後、丹波国から加佐郡、与謝郡、熊野郡など5郡を割き、新たに丹後国を設けて与謝郡府中(宮津市)に国府が置かれた。同年、備前から美作、日向から大隈の各国が分置された。律令を整備し中央集権体制を堅固なものとした朝廷の権勢は大都城の構築のみならず、地方支配においても行政区画の細分化(分国)によって徴税などに濃密な政治的配慮も必要だったのだろう。特に丹波地方は、何鹿郡(綾部市)や加佐郡(福知山市)など織物を主産業とした先進文化が早くから花開いていたから当地の豪族への支配権の確保は中央政府の喫緊の課題であったのだろう。
 綾部市西坂町は丹波国と丹後国の国境にあり、何鹿郡(丹波国)と加佐郡(丹後国)との郡境の町。町の外れの峠道にその国境石(写真下)がある。「従是東丹波国何鹿郡」、もう一方は「從是北丹後国加佐郡」としるされている。造立は「従是東丹波国何鹿郡」の国境石に明治27年と読める記銘がある。丹波は丹後より古い国であるから国境石の標記は、常識的には「是東丹波国・・・」、「是北丹後国・・・」となるべきところ、「從」と「従」の用法が逆になっている。理由はよくわからないが、多分、江戸時代ころに丹後国加佐郡の国境石が丹波国のそれより先に峠に建てられていたのではないだろうか。明治期に道路改良等により国境石を建てかえる際、先に建てられていた丹後国のものに「從」を付したのでないかと思う。国境・郡境石として今日では大変珍しいものである。
 峠を越えると南有路の集落が開け、由良川が次第に河積を増し、日本海に注いでいる。
西坂の峠道と国境石
国境石