京都
早春の寺(浄瑠璃寺)−京都府木津川市加茂町西小札場−
馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺じょうるりじ  <水原秋桜子>

 昭和4年、浄瑠璃寺を訪れた秋桜子は浄瑠璃寺門前の風景をこのように詠んだ。前年、俳誌「破魔弓」が「馬酔木」に改題された。その際、改題の辞にかえて「馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ<秋桜子>」と詠んでおり、大和・山城旅行は秋桜子に忘れ得ぬ感銘を与えたのだろう。浄瑠璃寺は大和と山城の国境の寺。九体阿弥陀堂の諸仏の霊威を予感させる門は、馬酔木が咲く参道の先にある。そのささやかな門が万物を浄土へといざなうのである。
 2月中旬、浄瑠璃寺の馬酔木が七分咲きになった。メジロの群れが参道の馬酔木並木をチッチッチッと澄んだ鳴声をのこして渡り往く。
 メジロの鳴声に導かれ参道を往き、門をくぐり境内に入ると右手に本堂、左手の石段を上がった小丘に桧皮葺の三重塔が対峙し、その中間に池がある。寺の開基は天平3(731)年、行基菩薩と伝えられる。本堂は永承2(1047)年の創建。11間4面、4注本瓦葺の壮大なものである。九体の阿弥陀仏を安置するいわゆる九体堂である。藤原時代の好尚を示す建築物である。
 小丘の三重塔は、治承2(1178)年、京都の一条大宮から移したものといわれる。瀟洒、秀麗である。池を中にして、よいバランスで配置された伽藍は浄土式伽藍と呼ばれるものだ。西方極楽浄土の阿弥陀如来を西(本堂。写真下)に、東方浄瑠璃浄土の薬師如来を東(三重塔。写真右)に配し、中央に宝池を置いて美しい浄土をあらわしている。境内は幽遠の趣が深く、蒼古の堂宇が藤原時代の祈りを伝えている。本堂に定朝作といわれる阿弥陀如来坐像や地蔵菩薩、運慶作の四天王像が安置され、吉祥天女立像は聖武天皇の作と伝えられる。−平成20年2月− 


九体阿弥陀堂のこと

 浄瑠璃寺の浄土の池の彼岸に本堂(写真右)が建っている。11間4間の南北に長い御堂である。堂内に中尊の阿弥陀如来坐像を安置し、その左右に阿弥陀如来坐像を4対ずつ合計九体の阿弥陀仏坐像を併座する.。この阿弥陀仏併座の様式を九体阿弥陀像と称し、これを安置する御堂を九体阿弥陀堂と称する。
 九体阿弥陀堂は藤原時代に流行を見たがその創は欣求浄土を希求した藤原道長の九体阿弥陀堂に求めることができる。道長は居宅京極殿の隣に九体阿弥陀堂を造営し、京極御堂或いは無量寿院とよばれた。順次金堂、講堂などの伽藍が整備され寺観が整い、大鏡の筆者をして「…東大寺も仏ばかりこそは大きにおわしますめれど、なおこの無量寿院にはならび給はざる」と感嘆の体であり、壮麗を極めたのである。道長はこの無量寿院において薨じた。たぶん、九体の弥陀の手から延びる蓮糸を握りながら極楽往生を信じて息を引取ったことであろう。
 しかし今日、洛中に九体阿弥陀堂も九体の阿弥陀仏坐像も存していない。あの六勝寺の礎石の残欠すらのこっていない。わずかに法勝寺遺址の石碑や庭園を二条通りの一角に見出し、道長の無量寿院に安置されたであろう阿弥陀仏の残影を宇治平等院鳳凰堂(参考:藤原仏の系譜)や法界寺の阿弥陀仏に求め得るにすぎない。したがって、私たちは道長の作善を実感できないが当尾の浄瑠璃寺において、唯一、九体阿弥陀堂と九体の阿弥陀仏坐像を拝することができ、道長の欣求浄土の作善の体を知りうるのみである。それにしても、九体阿弥陀という密教的、天台的な浄土思想が、当時興福寺の末寺であった浄瑠璃寺においてなぜ発現したのか。京都の藤原文化に連なる縁者或いは蓮糸を握り欣求浄土を願った者は誰なのか、この堂宇と仏像は限りない興味を私たちに与え続けている。