京都府北部に綾部市がある。街の中央を貫流する由良川に綾部大橋が架かり、水面に橋容を映して美しい。そのほとりにたぶん、日本で一番小さな公園ともいうべき広場がある。 「国際広場」と名づけられたその公園は紫水ヶ丘(標高約100b)に通ずる道端にあり、日朝友好之碑が立っている(写真上)。
広島、長崎の平和公園はいずれも原子爆弾の爆心地にある。名古屋市、千葉市などに所在する平和公園は戦争で被災した墓地公園等に名づけられた名称。平和公園と名づけられた公園には第二次世界大戦の反省から平和を希求する市民の祈りが込められている。
しかし、第二次世界大戦の罪過は原子爆弾などによる戦災ばかりではない。一般人への無差別の人権侵害が日常生活にも重くのしかかっていたことを忘れてはならない。
第二次世界大戦中、朝鮮半島から来日し、綾部市内の炭鉱などで働いた人々がいた。炭鉱は泥炭を産出した。品質が悪く日本人が見捨てた石炭にツルハシを打つ人々が綾部市に住まいしていたのだ。
敗戦によって、日本で働く朝鮮人(朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」と略す)出身の人たちを「朝鮮人」という。)の帰還は日朝間で平和条約が締結されていない中、戦後処理問題とも絡み重要課題であり続けた。
北朝鮮の要請によって藤山外務大臣は昭和34(1959)年2月、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を認め、その旨韓国公使に通告を行った。通告に対し北朝鮮と対立する韓国が日本政府に抗議し、政治局面が混沌とする中、日本と北朝鮮の赤十字社による協議が行われ、同年6月仮調印された。その半年後の12月14日、第1次朝鮮人帰国船は新潟港を出港、同16日北朝鮮の清津港に入港し在日朝鮮人は帰還した。
帰国船が出航する10日前の12月4日、綾部市在住の第1次朝鮮人帰国者は綾部市役所を訪れ、帰国報告を行い謝意を述べた。さらに、朝鮮人帰国者家族はその子弟が通う小学校で帰国報告と感謝の趣を述べたという。その弟を傍らに挨拶に立ったのは中学生の兄だった。私は思う。彼らの来日の理由の仔細は知るよしもないが、生活をともにした隣人とはいえ日本人にお礼を申し述べ、頭を下げることはそうたやすいことではない。心情を思うと心が痛む。
平成7(1995)年11月、紫水ヶ丘の国際広場に市民の寄付と綾部市の協力により、「日朝友好之碑」が立てられた。道端にある広場はささやかで狭い。
碑は綾部市在住の朝鮮人の帰国を記念してもともと綾部市役所の一隅にあったという。諸般の事情(庁舎の改修)によって当地に移転。「日朝友好之碑」の建立に当たっては移転前の旧礎石が使われている。日朝友好之碑の傍には「全世界戦没者慰霊之碑」が立ち、世界平和の願いを発信している。−令和3年10月− |