物部というところ−綾部市物部町須波伎− |
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草間池 |
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須波伎部神社 |
JR綾部駅の北西3.5キロほどのところに物部という町がある。古代の物部郷である。物部は物部と須波伎(すわぎ)の2地区からなり、それぞれの地区に延喜式内社が鎮座する。後者の地区に鎮座する須波伎部神社は貞観11(869)年に従五位下の神階を授与(三代実録)された何鹿郡(いかるがぐん)内首座の式内社である。斉庭は広く社殿も大きく立派である(写真左下)。桜並木が植わった参道は細く険しく、参道下に脇道がある。
物部は古代豪族物部氏の支配地。古い歴史のあるところだ。郷中の須波伎は須波伎物部氏(須羽直)の故地と推される。須波伎部神社の須波伎部は部曲ではなく須波伎物部の省略形であろう。
同社の東約400メートルのところに草間池(写真左上)がある。綾部市内最大のため池で灌漑面積は約30ヘクタール。築造年代は不詳。この辺りは由良川の支流犀川のそのまた支流域に当たるが、水掛かりが悪く別途、灌漑池が必要であった。稲作の必須の条件として池は整備され、須波伎部神社に神階が授けられたころ、大きな池は眼下の美田を潤しアガタ、アガタに聞こえていたに違いない。
池は草間池とよばれていてマガモが群れ、池周りにフキノトウが顔を出し、谷筋ではアセビが春を告げている。
物部氏はヤマト王権の最高執政官大連として活躍した氏族。日本書紀によると、武烈天皇の崩御後、王位継承者が絶えたとき大伴氏と協力し越前の三国から継体天皇を迎えた。また一族の物部麁鹿火は磐井の反乱により倭国が二分される危機に瀕したとき、筑紫の御井郡(久留米市付近)で磐井を斬り反乱を鎮定した英雄。
麁鹿火の母は須羽直(すわのあたい)女妹古である。この須羽直の支配地である丹波・須波伎(すわぎ。「ぎ(き)」は韓語のムラ(村)と同義)であり、「須波伎部神社(すわぎべ神社)」は須波村の物部氏の神社の意であろう。近在の阿須々伎神社(あすすぎ神社。志賀郷)や御手槻神社(みてつき神社。上位田)にも須波伎部神社と同様、末尾に‘ぎ’や‘き’がみえ(_線)、古い時代にこの地方を韓人が支配していたか住まいし、やがて一族はヤマト王権の伴造として雄飛したのだろう。
倭国に令制がひかれる以前の氏姓について、‘直’はアガタヌシ(県主)又はクニノミヤツコ(国造)身分の者に当てられることがある。そうすると、須羽直はアガタヌシとして当地を支配し、氏神として須波伎部神社を奉祀したものと考えられる。延喜式において同社がは何鹿郡内の首座に位置づけられ、崇められた所以もそこにあると、僕は思う。
物部氏はスサノオノミコトの第5子饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖神とする。先代旧事本紀によればニギハヤヒノミコトは天の岩船(アマノイワフネ)に乗って生駒の哮ヶ峰に天下ったとされる古代氏族。政敵で崇仏派の蘇我氏と争って破れた。物部氏の本貫地は河内の私部と推されるが、同族の須羽直が何鹿郡辺りに住まいしたものか。渡来人の秦氏にスサノオノミコトを祖神とする信仰があり、物部氏は5世紀ころに大挙して倭国に渡来した秦氏と同根の氏族であったと思ってもみる。
何鹿郡内の由良川支流域で営まれる農業は基本的にため池を水源とする灌漑農業である。築造年代不詳の草間池は須波伎物部氏によってつくられた灌漑池であったと確信する。須波伎部神社を見渡せる草間池の土手に立ち、池から引かれた一筋の水路を眺めていると、古代物部氏の幻影が見え隠れする。−平成23年3月− |
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