京都
丹波の修験道(三岳山)-福知山市-
三岳山いただき隠す法の道 <閑山>
金光寺(不動堂) 丹波高原の北辺に三岳山(839㍍)という山がある。御嶽山とも呼ばれ3丹(丹波、丹後、但馬)地方の修験道の中心をなす山だった。山上に蔵王権現(明治の廃仏毀釈後は三岳神社に改称)を祀り、山腹(南麓)に別当寺とみられる金光寺がある。
 三岳山の北方には、鳩ヶ峰(746メートル)、大江山(833メートル)、赤石ヶ岳(736メートル)が東西に並び大江山連峰をなす。その山ひだの谷水を集め雲原川が東方に流れ出し、由良川に合流する。
 国道176号線沿いの坂浦集落(福知山市)の高みに立つと、眼前に大江山連峰の山裾に青く澄んだ雲原(福知山市)の村落が腹ばい、集落を挟んで大江山連峰の南方に三岳山が屹立し、対峙する。 
大江山連峰(右‐大江山、左-赤石ヶ岳)
 三岳山上に登ると木々の垣間から大江山連峰が見え、南方に鬼ヶ城(540㍍)等々の孤峰が浮かぶ。西方に目を転じると彼方に三丹の山々が墨絵のようにたたずむ。古人はそれらの景観に霊気を観じ、深山に分け入り、呪験を感得する行儀を行い、当地に山岳信仰を見出したのだろう。社伝は、丹波・丹後地方に流行った悪疫退散とうち続く旱魃から農民を救済するため、大化年間(7世紀)に鎮守の神を祭ることを朝廷に願い出て許され、後に役行者がやってきて三岳山上に蔵王権現を祀ったと伝えている。三岳山の修験道(以下、「三岳修験道」と略する。)の曙を宣言する故事であろう。
 吉野の金峯山が有名になり各処の山伏や僧、修験者を吉野に駆り立てた。金峯山は物詣の一大メッカの様相を呈し、三岳修験道も大いにその影響を受けたことだろう。
 大江山連峰は三岳修験道における山伏、修験者の回峰行場のひとつ。深山幽谷を渡り歩く山伏の姿に畏怖し、諸処の修験の山に「鬼」や「天狗」の伝説を生んだ。源頼光の「大江山の鬼退治」伝説は、山伏が行場を駆け巡る三岳修験道が最盛期に達し、その名声が都にまで聞こえた宗教的雰囲気の中から生まれた寓話に違いない。
 小式部内待の歌に’大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立 <金葉和歌集>’がある。歌中の大江山につき京都市郊外の大枝(昔の大枝村の山)という説もあるが、このころすでに三岳修験道が物詣の山として都に聞こえていたと推すると、歌中の山を丹波の大江山と考えるのが自然であろう。到底、老いの坂周辺の山々に修験のイメージを持つことはできない。この歌は丹波の大江山の鬼退治伝説の成立時期とも重なり興味深い。
 三岳山の中腹(南麓)にある金光寺は、不動堂を本堂としている。寺は三岳山上の蔵王権現(三岳神社)の別当寺と推され、応永27(1420)年に比叡山延暦寺の末寺に取り上げられ領家妙香院から伝達されている。妙香院の差配によるものだろう(金光寺は近世になって真言宗高野山派に属している)。ささやかな一宇であるが、往時の金光寺の伽藍の一部であろう。
 三岳山麓には金光寺から東側に周回したところに御勝八幡神社が鎮座する。紫宸殿田楽(びんささら田楽とも)などの祭事芸能を伝える社。「昔は秋祭りに、天座や夜久野辺りから神輿が上ってきました。舁き手がいなくなり今は上ってきません。紫宸殿田楽は25年に一度、今も奉納されています。こんどは3年後の平成27年です。」と土地の人。
 金光寺の直下に青少年山の家などが建ち今、山麓は丹波の野外活動の拠点となっている。

丹波は古くから修験道の盛んなところ。かつ三岳修験道縁の金光寺、鬼ヶ城の観音寺、君尾山(543㍍)の光明寺、烏ヶ岳( 537㍍)の東禅寺、弥仙山(664㍍)・・・等々、修験道の行場となる山々の麓には真言密教系の古刹が居並ぶ。開創を役行者とし寺歴を飛鳥・奈良時代と伝える寺院も少なくない。
 山岳信仰における修験の行儀はもともと真言のそれと類似していたようだ。一般には修験道の回峰行が密教の行儀の一つのように理解されているが、金峯山の例からも窺えるように、もともと三岳山などの山岳信仰に山林に分け入ってする行儀が存在し、それと類似した密教の行儀が結合しいわゆる修験道に昇華していったものと推される。
 大和の金峯山は吉野から大峯山に至る地域の総称。古くからミダケ(御嶽)信仰の盛んなところで、山に黄金の縁故をつけてカネノミダケ(金峯山)と称した。白銀黄金を盛った山に神仙が宿るという道家思想の影響を受けたものとも考えられる。この金峯山に蔵王権現が示現し、金峯寺が開け山上ヶ岳(1720㍍)と金峯寺に蔵王権現が祀られた。神祇では吉野水分神社や子守神社、勝手神社などが祀られ、金峯山はわが国の御嶽信仰の中心となった。特に、葛城山にいた役小角(役行者。飛鳥~奈良時代の人)が金峯山に登り蔵王権現を感得したと伝えられると、金峯山の知名度は急に高まっていく。
 金峯山の物詣は特に注目されるところとなり、白川上皇などの皇族や藤原道長、同師通など時の権力者が都からはるか遠くの金峯山に入り、祈請を行い、経塚を供養するなどしたから金峯山はますます有名になり、各地の山伏や僧侶、修験者が山上ヶ岳に登るようになり、流儀も生じる。本山派(聖護院)は熊野路から分け入り(順峰)、当山派(醍醐三宝院)は吉野から登った(逆峰)。当山派は入山の道すがら、吉野川筋の六田の柳宿から熊野の音無川まで75ケ所の霊場・宿場(「七五なびき」という。)を設け、山伏は「なびき」で神仏に詣で祈祷修法を行った。
 全国各地に金(カネ、キン)の字をあてた修験の山や寺院が所在し、山上・山下に蔵王権現などを祀る風は、大和の山上ヶ岳と金峯山に結びついた修験道の影響下で生じたことを示している。
 三岳修験道の起源は不詳である。しかし素地にわが国固有の山岳(御嶽)信仰のもと真言の下地があったことはすでに述べた。三岳山上と称し、山上に「蔵王権現」を祀り、金光寺という別当寺の名称に「金」に由来する字をあて、神祇として御勝八幡神社に「勝」の字をあてていることは、外見上も多分に金峯山を範としたところがうかがわれ、その影響下で三岳修験道が発展したことは否定できないだろう。
 さて、三岳信仰と地域或いは農民の生活とのかかわりはどのようなものであったのだろうか。


当地の三岳修験道に係る文献の初見は元享2(1322)年の金光寺文書である。当時、三岳山周辺の喜多、大呂、野条、天座、佐々木などを域内とする荘園(いずれの今の福知山市。佐々木保)の領家妙香院が蔵王権現七王寺社に対し行った寄進状である。妙香院は比叡山横川の飯室谷(滋賀県)にあって比叡山延暦寺の末寺。関白太政大臣藤原兼家(道長の父)の娘栓子が生んだ一条天皇の子孫繁栄を願って妙香院を建てその際、佐々木保を妙香院に寄進したいきさつがある。門跡寺院である妙香院(後に廃絶)は一切の臨時課役を免除される官省府の地とされた。また、応安5(1372)年の「妙香院門跡令旨」には、金光寺が仏法再興のため建立された由、記述がある。応安5年以前の寺の様子はわからないが、山上に蔵王権現を祀った歴史は古く、おそらく別当寺とは言えないまでもささやかな庵程度のものは想定でき、それを妙香院が名実ともに別当寺として再整備したのだろう。以降、金光寺は佐々木保の領家妙香院の加護を受け大いに発展したらしく天文年間(1532~1554)には子院は7坊を数えた。寺の本尊は妙香院と同じ不動明王。領家の安泰と繁栄を願い加持祈祷を行ったことは想像にかたくない。
 金光寺別当職には領家の妙香院所縁の者があてられ、寺は領民の日常の生活にも少なからず影響を与えはじめる。金光寺は観音堂、不動堂など村落の諸処に設けらた村御堂等の導師となり、祭や供花等々の行事を仕切り、農民の信仰生活の要となり、また中世から近世に至るまで「惣」のような組織にも関与して、領民の自治形成にも大きな役割を果たした。
 すなわち金光寺文書によると、寺が盛行を極めた天保年間(1532~1554年)には三岳山麓の寺坊が共同風呂の経営を行っていることがわかる。一定の順序を定めて衆僧や地下人、沙汰衆などがともども入浴し、かつ域内の問題解決のため寄合座敷を設け祭礼の費用などにつき寺と地下の分担の取り決めをおこなったのである。都を遠く離れた地域において、公衆浴場ともみられる風呂経営が行われ、また相当早い時期から寄合座敷が存在したことは注目に値する。
 明徳5(1394)年の金光寺文書などから、金光寺が盛んになると衆僧の風紀廃頽の行いがあり、地頭が結界における狼藉・殺生を禁止している。また地頭は蔵王権現の神領収入が妙香院の代官により横領されていることを妙香院に申し出て、神田が金光寺に返される事件の顚末を記している。代官の神田横領の件は妙香院の目が届かないことを奇禍として為した代官の悪行と考えられるが、代官の氏名や就任のいきさつ等々に不明の点が多い。一方、この事件は武士たる地頭が荘園をじわじわと蚕食していく証と見られなくもないが、当地の地頭は天寧寺(福地山市)の檀越となり信望を得ていたようであり、不埒な代官もいたのあろう。しかしうがった見方をすると、妙香院が地頭の任命等につき山名氏(守護大名)を差配できないほど武士が力を蓄え、相対に領家が力を失い、知行が独り歩きする中世的事情があったかもしれない。佐々木保における領家と地頭の力関係や租税、課役に関する資料が少なく藪の中の事件といえる。
 南北朝のころ足利尊氏が篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町)に佐々木保を寄進し、醍醐三宝院に管理させる等々、武士による荘園の簒奪が行われたことがわかる。寄進に係る領地の範囲や領家との関係なども甚だ不明瞭である。このころはまだ、領家妙香院の力は比叡山延暦寺をバックにして地頭等武士を抑えきれないほど衰微いていたとは思われないが武力を蓄えた地頭の実力は確実に地方の隅々まで沁み込んでいったのだろう。
 金光寺の境内に立つと、眼下にのびやかな丹波の山々が広がっている。大きなリックを背負ったハイカーが澄んだ秋の陽を受けて三岳に向かう。傍らでテッポウユリが初秋の風に揺れている。


             三岳型庚申塔

佐々木保内には、今も観音堂等の村御堂が随所に残り大切に維持、管理されているされている。そのようなお堂周りや道端に庚申塔が祀られ、献花が絶えることはない。三岳修験道の伝統と真言の素地がこの地に三岳型庚申塔の信仰を生んだのだろう。(庚申塔
 上佐々木、仏谷、雲原、喜多、大呂などの集落を訪ねられるとよいだろう。三岳型庚申塔ともいうべき特徴的な像刻塔に接することができる。像容は一面六臂の不動明王。焔髪の頭、右手に鉾、三鈷剣、矢、左手に宝輪、羂索、弓を持ち、目はカッと見開き歯をむき出しにした形相。裳は地蔵菩薩を思わせる。
 三岳型庚申塔にも像容の違いが認められ、上佐々木と雲原、谷村はほぼ共通し、大呂、喜多などの庚申塔は雲原等前者のそれとは明らかなに相違する。製作年代は前者が先行する。造像の違いは石工の個性によるものか、経年による好みの変化によるものか、今後の研究が待たれる。-平成24年8月-