イチョウ並木(鹿大・郡元キャンパス)-鹿児島市-
紅葉前線が鹿児島に達した。昼間、気温が上がらなくなり、中央公園の陽だまりでのんびりと週末を過ごす家族づれもめっきり多くなった。
 私たちは、朝夕の気温や太陽光線などから季節の変化を体感する。とりわけ、視覚によるイメージは、季節感の基本になっているように思う。
 落葉樹が少なくクスやカシの常緑樹に覆われた鹿児島では、県外者ははなはだ季節感を意識しづらい。しかし、敬天愛人の精神に満ちた鹿児島の人々は、公園や公共施設の脇などにイチョウやケヤキなどの落葉樹を植える努力を怠ることはなかった。
 鹿児島大学の郡元キャンパスで、イチョウ並木が黄金色の輝きを放っている。11月16、17日は鹿大祭。ライブ、茶会、書道展、映画会、各種研究の発表など学生文化が花咲き、模擬店がお祭り気分を昂揚し、学生と市民が自然に溶け合っている。なかなか雰囲気のよい大学祭である。スローガンは、「思想の荒野 拓け、創造の大地を!」であるらしい。西郷さんが近代国家の扉を開いたように、この学舎から傑出した人物が輩出することを願いたい。

 田之神の風景(日木山)-加治木町-
石塔
 小春日和の柔らかい日差しが集落が包んでいる。日木山の麓のツゲの木の下でシキを頭にかざし、杓子を手にした「田の神」さんがうつむきかげんに微笑んでおられる。シキは米を炊く甑(コシキ)のフタである。この愛すべき石像は、田之神舞の所作を描写し、五穀豊饒を祈願したものらしい。作者は民舞をそのまま描写するのではなく、農民のもろもろの願いをこの像に込めているようにみえる。シキと杓子に五穀豊饒を、なんともいえない素朴な微笑に家内安全など永劫の安堵が表現されているのだろう。
 ともかく、日木山のタノカンサー(薩摩の人々は親しみをこめてそう呼ぶ)は実に200年間、この集落の人々の信奉を得て、いまなお生花が絶えることはない。ビールの御供えはタノカンサーも寒かろうと、心優しい人々の気配りであろう。集落の片隅にたおやかで美しい祈りの風景がある。傍らの畑で小みかんがたわわに実っている。写真に撮らせていただいた。田之神さんには申し訳ないが、横着をして写真のミカンをお供えしよう。
 日木山集落の田之神さんの近くに立派な石塔が残されている。石塔は、鎌倉時代に建立され2メートル余もある堂々としたものである。菜畑の隅に祀られ、やはり生花が供えてある。ここにも薩摩のいい風景がある。 鹿児島県下には田の神さんが随分保存されていて、いまなお大事に祀られている。大隈の肝属川のほとりで、或いは東シナ海を臨む阿久根の山間や鹿児島市内の新村の甲突川のほとりなどで、姿、形は万状であるがみなシキを被り杓子や鍬を持ってたたずんでおられる。米を炊ぐシキは奄美諸島(与論島)において、近年まで一般的に用いられていたようである。稲作文化の伝播の道筋などを教えているように思う。
 鹿児島市内の黎明館の裏手に、県内各地に祀られている田の神さんの模刻が4体展示されている。見学されるとよいだろう。 
田の神永福寺 四国88箇所第57番札所永福寺(愛媛県玉川町、写真右)の境内で田の神さん(写真左)に遭遇した。シキを被り右手に杓子を持っておられる。薩摩など南九州の田の神さんの様式が備わったタノカンサーである。故郷に思いを馳せながら、瀬戸内海の燧灘に臨む異国の地で庶民の幸せを祈っておられる。
 高松市の栗林公園の古民芸館に田の神さんが2体保存されている。九州から廻船によって運ばれたか或いは四国遍路に旅立った石工が当地で刻んだものであろうか。

晩秋の風景−メジロ−国分市口輪野
画像(メジロ) 画像(カワセミ)
 国分市内の国道10号線から数キロメートルほど山手に入ったところに、戸数20数戸の口輪野集落がある。
 近くの小川で、カワセミ、カワガラスなど今では余りみかけなくなった小鳥が晩秋のやわらかな日差しを背に、川原石の間をせわしなく往来し或いはまどろんでいる。川原はさながら野鳥の楽園である。集落の入り口付近に切り立ったシラスの山塊がみえる。鹿児島の古老がよくいう「ホ」とは、このような断崖を指すのであろう。
 晩秋のある日、また口輪野集落を訪れた。今秋、2回目の訪問である。集落は小鳥の楽園。家々に南天やモチノキなどが植わり、柿の実は小鳥へのプレゼントであろう。熟れるにまかせ、うっちゃってある。柿の実にメジロやヒヨドリなどが群れ、柿の実の赤とメジロの黄緑色のコントラストも美しく、光の中に晩秋の絶景がある。
 一体に、この地方の人々は、屋敷周りの柿を収穫することもなく、熟れるに任せ鳥類に報謝しているように私にはみえる。自然への慈しみがまた生活の潤いとなって輪廻することを伝来の生活意識としてきっちりと受け継がれているのだろう。