筑紫次郎と呼ばれる筑後川は、遠く阿蘇の外輪山に源を発する流路延長143キロメートルの川。九州の母なる川である。川のほとりで死に変わり生まれ変わり、田を打ちつづけた人々の生活を育んで、とうとうと流れる筑後川は神代川とも称せられた川。稲作農民の三千年の証を河畔に刻み、歴史を飲み込んで有明海に開口する川である。
筑後は藩政期には、米とともに生蝋の生産で栄えたところ。まもなく真っ赤に色づいたハゼの木が平野を彩る季節が訪れる。
秋の日、朝倉から久留米、少し時間があれば三潴辺りまで、終日ゆっくりと堤防沿いを歩くのもよいものである。黄金色に染まった筑後平野は郷愁をそそり、この川の流域から太刀を佩き、武装をした人々が東征していったかと、違和感なく受け入れられるのも豊かな平野と周りの旧蹟の印象によるものであろう。
筑後川河口部のクリークが網の目のように広がる低湿地は、いつも洪水の危険にさらされ実際、藩政期には隔年ごとに洪水に見舞われるほど水害の常襲地帯だった。しかし、クリークは、平時の灌漑には大変よい条件をそなえている。干満差が6メートルを越える有明海は、満潮時に潮の上層にアオ(淡水)を運んでくれ、干潮時に余分な水は簡単に排出できる。近年に至っては、揚水機場や水門の整備によって重労働を伴うアオ汲みなどから開放され、河口部においても二毛作に不可欠な乾田化が容易になった。筑後川、矢部川河口部の干拓地におけるみごとな麦秋は、本当にクリーク農業の恵みを感じさせる。
古代においても、湿地の広がるクリーク地帯は、米作が盛んに行われた地域。この地の人々はいち早く鍬先に青銅や鉄を履かせたに違いない。
鉄等を得て生産性を増した稲作はやがて流域人口の増加を招き、その圧力が東征のきっかけとなったと考えられないものか。筑後川やその周辺から断続的に畿内に向かう人々がいて、瀬戸内海や大阪湾沿岸に進出した集団は、やがて大和川を遡り、亀ノ瀬を超え或いは生駒から大和に入った者もいたに違いない。長原遺跡(大阪市平野区)出土の甕棺墓や加味遺跡出土の銅剣など大阪湾岸には北部九州の弥生文化を示す弥生遺跡が散在する。豊富な鉄器と水稲の灌がい技術を携え、波状をなして押し寄せた開拓民が畿内に到達するのにそれほど時間を要したとは思われない。そうした移住、開拓の記憶が神武東征や応神天皇の宇美生誕伝説などの日本神話に圧縮されていったのではないだろうか。
一般的に、開拓、移住には大きなリスクが伴う。近世においても、近代のように国や自治体が希望者を募るという手法ではなく、家族など血縁を同じくするものによって開拓、移住は行なわれた。古代には筑前国嶋郡戸籍(大宝二年)の断簡に残る大領(郡司の長官) クラスの家族は総勢100人を超える大家族であった。弥生時代においては、さらに大きな構成員からなる家族単位(部族)で移住、進出したであろう。
畿内においては、北部九州の部族が波状をなし東進する以前、縄文、弥生を通じ広大で相当の人口規模を有する居住区が存在したことは纒向遺跡などによって明らかであるが、そうした畿内の弥生社会に王権の存在をうかがわせる資料は十分とはいえない。つまり、墓制や舶載鏡の所在などからみて、王権の存在を立証できるような成熟した社会が存在していたとは考えにくい。また、箸墓を基準にその他の古墳の築造年代を卑弥呼の時代にまで遡及させるような論議は、箸墓の発掘が行なわれていない状況下においては的を得たものとはいえない。さらに、弥生期において、王権が存在し、畿内と朝鮮半島との交易が直に行なわれていたと想定するならば、遺物から渡海のルート等について詳細な検証が求められるであろう。対馬海流は物理的にもそれほど自由な航行を保証するものではない。弥生期における畿内の王権が自由に朝鮮半島を往来し舶載鏡などを保有していたとするなら、北部九州の王墓と同様に弥生前期、中期あたりの墳墓が存在し、そこから舶載鏡や壁などの遺物が出土してしかるべきである。加えて、北部九州の沿岸沿いに航行し、東松浦半島乃至五島辺りから海流に乗り壱岐、対馬を目指して朝鮮半島に至る弥生期の渡海ルートを畿内の王権が確保していた状況証拠が必要である。
日本書紀は、神武天皇がヤマトに入ったころ、天神の子であるニギハヤヒノミコトがヤマトを治め、神武天皇と同じ神宝を祭っていたと伝えている。この日本書紀の記述に関し、丹波国(現在の丹後・宮津市)の籠神社(写真左)宮司家に伝わる「海部氏系図」並びに「海部氏勘注系図」は、海部氏(宮司家)の始祖・ニギハヤヒノミコト(ホアカリノミコト)について、凡海息津嶋(冠島)に降臨したこと、母は大己貴神の女であること、天祖から授けられた二璽神宝である邉津鏡(前漢鏡・内行花文昭明鏡1面)と息津鏡(後漢鏡・内行花文長宜子孫八葉鏡1面)を斎き奉っていること等を伝えている。ニギハヤヒノミコトの名称等から推察して有明海沿岸からヤマトに進出していた部族であろう。2面の鏡は文書の記録が存在する最古の鏡である。この種の舶載鏡が弥生期の墳墓から出土するところは北部九州を除いて考えられにくく、神武東征に先立ち、北部九州からすでに日本海ルートで畿内に達した部族の存在をうかがわせる。当然、海部氏勘注系図によるまでもなく同族は婚姻を通じてヤマトに拡大していたであろう。籠神社は天橋立の砂州を渡りきった風光明媚なところにある。砂洲で仕切られた内海は阿蘇海と呼ばれている。
筑後川流域は、久留米、山門、甘木など邪馬台国にあてる者もいるところである。戸数7万を擁する豊かな女王国は、矢部川を含む筑後川流域を除いては考えにくい。 |