京都
天橋立−宮津市−
 天橋立はJR駅のある文殊から対岸の江尻まで約3.6キロメートルの砂洲である。文殊の文殊堂(天橋山知恩寺)は、安倍の文殊(奈良県桜井市)、亀岡の文殊(山形県高畠町)と並び日本三文殊の一つに数えられる。文殊堂の目の前に天橋立が横たわる。
 天橋立は松林になっていて、その南に宮津湾、北に阿蘇海(内海)が展開し、2箇所で海道(切戸。二つの切戸の幅はともに約30メートルほど。)が松林を破っている。

回転橋
 文殊寄りの海道に架かる回転橋(写真右)を渡ると小天橋。砂洲でできた松林をそう呼ぶ。小天橋から二つ目の切戸に架かる橋を渡ると大天橋。その松林は江尻まで続く。
 丹後国風土記逸文によれば、天橋立はイザナギノミコトが天に通うために作った橋であったが、ミコトが眠っている間に海中に倒れできたという神話に因んでそう呼ばれてきた。したがって、砂州もまた橋の残欠であり、二つの砂州がそれぞれ小天橋、大天橋と呼ばれる所以である。大天橋は江戸時代に二つ目の切戸ができ天橋立が二つに分断され、長い方の松林がそのように呼ばれるようになったもの。
 大天橋に架かる橋から約500メートルほど行くと濃松(あつまつ)。このポイントは砂洲の幅が最も広く150メートルほどもある。ここは橋立明神が祀られ、岩見重太郎の仇討ちの場としてきこえる橋立中の有名ポイント。五輪塔や蕪村の歌碑がある。初夏のころ浜辺にハマナスやハマヒルガオが咲く。小天橋の砂洲が伸び続けているように海浜植物が砂洲に咲き、松林が遷移するのもまた自然。盛夏のころ、海水浴客の歓声に浜風を感じながら、ゆるゆると松蔭をゆく気分はここちよいものだ。
 松林に響く砂利音に振り返ると自転車が2台。買い物帰りの主婦らしい。また1台、今度は原付がそばを走り抜ける。やがて波音のほか何も聞こえなくなり、与謝海の金波銀波の光が松林をうつろう。
 この道は歩行者とバイク、自転車が交雑する道であるが清涼感がある。文殊と対岸の府中の人は、宮滝を迂回すると10キロもある道を行くより、3キロ余の天橋立の松林を行くほうがよいようだ。時間的にずっと短縮されるし、なによりも気持ちの浄化によい効果があるようだ。
 江尻の浜に着き、左手の道を進むとこの神社がある。出雲の杵築神社(通称出雲神社)と丹波の出雲神社が延喜式にいう明神大であるのに対し、籠神社は明神大に加えて月次、新嘗に預かる古社である。同社の宮司家、海部氏に伝わる「籠明神社祝部氏系図」などから同氏は系図をもつ日本最古の氏族と考えられ、海部氏の上代における由緒について相当、注目されてよいわけだ。籠神社の西、国分には、国分寺址がある。成相山の麓は丹後というより、本邦の歴史の形成にかかわった由緒を秘めているところといえるだろう。成相山の山上に立つと、よく知られた橋立(写真下)の景観がある。特に、雪を被った風景には言い尽くせない余情がある。
 上智大学第二代学長で戯曲細川ガラシア夫人の作者であるヘルマン・ホイヴェレスは、その著「日本で四十年」のなかで、・・・四十年を日本で過ごし、ふりかえって、日本のどこに一番好きな所があるかと自問してみると、それは宮津と天橋立であります。・・・と述壊している。もちろんヘルマン師には丹後の女王・細川ガラシアへの熱い思いが重なるのであろう。師にとっても天橋立は枠の中の絵のようなところであったにちがいない。−平成19年5月−

天橋立(江尻側からの観望−展望台にて)