京都
蕪村と天橋立−宮津市−
 
はしたてや松は月日のこぼれくさ (蕪村翁) 
 京都府の北部、日本海に臨む丹後に天橋立(写真)がある。古来、この名勝を訪れた文人墨客は数知れず、江戸期の俳諧中興の祖であり俳画の創始者である蕪村もその1人。諸国放浪のうちに蕪村36歳のころ京都に入り、宝暦4(1754)年初夏、39歳のころ京都からふらりとあらわれた蕪村は、同7(1757)年9月、宮津を去るまで3年余、年齢的にも創作活動に一番充実した時期を丹後の宮津・見性寺に滞在し、句作や画作に励んでいる。
 標記の句は「新花摘」によると、蕪村の宮津時代に読まれた句のひとつ。天橋立の松林中、橋立神社前にこの句を自然石に刻んだ句碑がある。句碑は高さ約1メートル、横85センチ、無村の個性的な筆跡を模刻したものと思われ、よいできばえである。宮津市萬町の見性寺境内にもう一つ、‘短夜や六里の松に更け足らず〈蕪村〉’と刻まれた句碑がある。高さ2メートル、横幅2.5メートルの自然石に刻まれた河東碧悟桐の筆になる句碑。六朝風の筆致で刻されている。
 宮津には蕪村の俳友であった見性寺の竹渓や真照寺の鷺十、無縁寺に両芭などがいた。見性寺を拠点にして丹後各地を吟遊し、画業や俳句にいそしんだ。このころから蕪村は丹後・与謝の村名をとって与謝蕪村を名乗る。丹後滞在は蕪村にとって大きな転換点になり、新境地の確信を感じ取った証であろう。京都に帰った蕪村はその後、讃岐などを回った後、島原で句を教えながら生涯、京都を離れることはなかった。
 京都市左京区一乗寺の金福寺後丘に、蕪村が安永5(1776)年に再興した芭蕉庵がある。その7年後に病没した無村は、生前の願により同寺後丘に墓所を設けている。寺の後庭には句碑がある。‘花守は野守に劣るけふの月〈夜半翁〉’とある。「夜半翁」は夜半亭二世蕪村の意である。蕪村20歳のころ、江戸で俳諧を学んだ師匠夜半亭宋阿の後継者というほどの意味。明和7(1770)年に夜半亭二世に推戴されたいきさつがある。 

 蕪村のこころ
 蕪村の生涯については謎が多い。その出生や家族、丹後行ひとつとっても蕪村自らが何も語っておらず、はなはだ不明解であって、家族や知己に情を通わせた芭蕉のそれとは雲泥の感がある。芭蕉を追慕し、江戸に出て東北行脚を試みて放浪の内に生涯を閉じかけたにみえるが、後半生は京都にあって俳画の宗匠をもってまた、堪能な句作の伝授などによって生計を立てていたようであり、芭蕉のように旅に生涯をかけ清貧のうちに死を迎えたようには思われない。45歳ころには結婚し、娘二人をもうけ安定した生活を営んだようである。金福寺にその妻の墓が並んでいる。妻もまた丹後・与謝野の人で蕪村と二人して京都に戻ったという伝えが地元丹後にある。蕪村の出生地は摂津郡東成区毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)、生年は享保元(1716)年。しかしその母の出自については傍証はないが与謝郡与謝野町の女性であるという口伝が地元にある。
 蕪村の丹後行について、京都滞在中に知り合った俳友で丹後見性寺の和尚竹渓に誘われて同寺に入ったという説があるが、それは蕪村の閉ざされた心の扉を開く条件に過ぎなかったのではないだろうか。つまり、正妻でなかった母に向けられた父やその親族のむごい仕打ちは幼い蕪村のこころを閉ざし、日を追い母への思慕が募る自分に抗しきれず、39歳にしてようやく丹後路に足を向けたのだ。蕪村は母の故郷の空気に触れ、念願かなった喜びに浸ったことであろう。竹渓はそのきっかけを与えてくれた恩人。蕪村は丹後行を境に与謝蕪村を名乗り、芭蕉とは異なる真情を句に爆発させる。それは芭蕉の、概念的美意識を万象の音から聞き分け、品良く、ときに理屈や道学風の知識を披歴するような句ではなく、目の前の実景を絵画的、視覚的によむ句である。ときに句中に自身の情念や社会のありようを滲ませる。その主観的描写にさえ人に共有する生活観を読者に刻み付けるのである。
 後年、子規や碧悟桐が句作の原点とした蕪村世界がそこにある。
 蕪村句
     宿かさぬ火影や雪の家つゞき
     さみだれや大河を前に家二軒
     五月雨や蒼海を突く濁り水
 ‘宿かさぬ・・・’の歌は、山村の家々から灯の日影が寒々と漏れていて、いかにもうら寂しい。どこもかしこも宿を乞うことのできるような風情とも見えない、というような解釈には蕪村の真情が伝わってこないというべきであろう。蕪村は歩き日が暮れて、宿を乞うたのだ。しかし家々の戸は固く閉ざされ、泊めてくれる家は一軒もなく、これが世俗の「まゝよ」という自虐の感慨に襲われつつ往き、振り返ると目の前に火影がこぼれる雪中の家並みは何と美しいことか、と現実の情念と雪中の家並み美しさ、家庭の団欒の灯という二律背反の情感をうたい、人々の共感を誘うのだろう。そこは桃源郷ではない。蕪村は‘宿かせと刀投げ出す吹雪かな’という句も作っている。しかし、‘刀投げ出し’よりさらに強く‘宿かさぬ’と現実を吐露することによってこの句は成功したように思う。
 2句目と3句目は丹後滞在中の句作かと思われる。しかし2、3句目とも主題に蕪村の実母の在所を流れる野田川(天橋立の阿蘇海に流入)を思うことができない。蕪村は見性寺を拠点にして丹後各地を吟遊しているから2句目の大河は由良川、3句目の蒼海は由良の戸(由良川河口部。若狭湾)であろう。
 五月雨をよんだ芭蕉の句に‘五月雨を集めて早し最上川’がある。格調が高く、雄大な句としてよく知られている。蕪村もしばしば五月雨をよんだ俳人であるが、芭蕉の句とはまったく異なるものだ。由良川河岸から眺める五月雨の景は、河川延長が長く流路が緩やかな最上川とはまったる異なる。まさにそこは濁った水が濁流となって‘蒼海を突く’五月雨なのだ。‘大河を前に…’の句は、蕪村の南画的な雰囲気を象徴するような句である。しかし大河の前の家二軒が流されはしないかと案じる句であろうか。蕪村がとらえた視覚的な景に客観的な詩情と鋭さを感じるが、頼りない小さな家は蕪村自身の境涯を示して余りある。
 蕪村の絵画的描写には、常に自然の景と人事を重ね合わせ、鑑賞者との合意が句に隠されていて、句中に爆発する主題も安堵感にかわるのだろう。そこには母の面影を慕って丹後に旅した嘗胆のこころが無村をして万物を語らしめ、離俗の許容を私たちに教えているようにも思える。−平成22年2月−