白砂青松の松原は、四周を海に囲まれた日本の海岸線の美しさを象徴する風景である。しかし、国土の防衛という点からは、まことに隙が多い。
上代に九州の北部地域のクニグニの王が中国、朝鮮半島に雄飛し、やがてヤマト王権が進出し、密接な利害関係をもつようになると、島国の危うさが為政者の脳裏から離れることはなかったであろう。特に、博多湾はそうした危うさから日本を防衛する最重要拠点であった。
ヤマト王権は北部九州の豪族であり朝鮮半島に利権をもっていたであろう筑紫の「磐井の乱」を平定(527年)すると、その版図の割譲を求め、直ちに那津官家(大宰府の前身。現在の福岡市南区三宅町辺りか)を設置し、外交、防衛上の拠点とした。
大陸の脅威が現実のものとなる日はそう遠くはなかった。西暦663年、300年にわたり日本と友好関係にあった百済が唐・新羅に敗れると、ヤマト王権は百済の救援に3万2千人余の兵を朝鮮半島に進めた。しかし、ヤマト軍は錦江下流の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、唐・新羅の南下の圧力が高まり、九州北岸の防衛力の強化が急務となった。
王権は、西暦664年、
筑紫、壱岐、対馬に防人、烽火を配備し、博多湾の水際にあった那津官家(筑紫太宰)を大野山(四王寺山)の麓にまで後退させ、大宰府の前面を水城で塞ぎ、背後に大野城、基肄城跡(佐賀県)を築き、山周りに数キロメートルにもなる土塁、石塁をめぐらせた。さらに、西暦667年には金田城(対馬)、長門城(山口)、屋島城(香川)、高安城(奈良)を築き、瀬戸内海における防衛力が強化された。雷山神護石(前原)、杷木神護石(杷木)など北部九州に残る神籠石は、大野城等の枝城とする見方もある。
大宰府は唐風の官衙が立ち並ぶ遠の朝廷(とおのみかど)と称えられ、以来、500年間、鎮西の軍事、行政の拠点として命脈を保つのであるが、遣唐使の廃止など大陸との交渉が途絶え軍事、外交上の重要度が低下するようになると、次第に中央官僚の左遷地としてイメージされるようになる。
麁原戦跡 |
しかし、奈良、平安、鎌倉へと時代は遷移し、鎌倉時代に北条氏が台頭したころ、国土を震撼させる大事件が発生する。蒙古のチンギス・カーンが東アジアを席巻し、東ヨーロッパにまで版図を広げ、その孫フビライが元を興すと、元は数次にわたってわが国に通商を求め使者が往来するようになる。時の執権北条時宗は元の使者を斬り要求を退けると、西暦1274年、元は、軍艦900隻を連ね、2万5,000人の兵を日本にさしむけ、対馬、壱岐を蹂躪し、遂に博多湾に元船が浮かぶ事態となった。元軍ははじめ糸島半島の今津に上陸し、百道、麁原、赤坂山など博多の西部を襲った。標高30メートル余の祖原山は百道に上陸した元軍が陣地を築き、激戦になったところだ。山頂に戦跡の記念碑(写真右上)が建っている。次に、元軍は博多湾の東に軍船を進め、多々良浜に上陸。博多の町を背後から襲った。日本軍は元軍の集団戦法と鉄砲(てつはう)、日本のそれの二倍もの威力があった弓の脅威を前にして戦陣を大宰府にまで下げたが、夕方になり元軍は一旦、軍船に引き上げた。その夜、博多湾に暴風雨が吹き元の軍船の大部分は沈没、大破し翌朝には湾上から軍船の姿が消えていた。このときの
筥崎宮 |
亀山天皇
(東公園) |
暴風を「神風」として語り継がれることになったのである。
一騎討ちを基本とする日本軍の戦法は、元軍の集団戦法と新兵器の前になす術もなく、一国が転覆する寸前に吹いた風はまさに神風であったろう。この戦いが世にいう文永の役である。
元軍の再来に怯える幕府の対応は素早いものだった。西暦1276年、幕府は元軍の再来に備へ、九州の諸大名に防塁の築造を命じ、僅か半年で今津から香椎まで延々20キロメートル、博多湾の沿岸は防塁で固められた。
現在、今津、生きの松原、姪浜、百地、箱崎などで元寇の防塁を目にすることができる。再来に備え、志賀島で高野山の僧侶による敵国降伏の祈願が行われ、博多の筥崎宮(はこざきぐう)には亀山天皇の「敵国降伏」の勅額が掲げられた。
1281年、元軍再来の危惧は現実のものとなる。東路軍、江南軍と二手に分かれ再来襲した元の軍勢は14万人。はじめ東路軍が壱岐・対馬を蹂躙し北九州本土へ南下。日本軍は防塁で元軍を食い止め、夜討ち朝駆けで博多湾に停泊する元船に奇襲をしかけるのだった。世にいう弘安の役である。この時、日本軍は防塁でよく元軍の侵攻を防ぎ、元軍は博多湾から壱岐に退却。これを九州の御家人が追撃するという展開になった。そのうち出発が遅れていた江南軍が東路軍に合流し、14万人の元船が肥前海上に浮かんだ。しかし、なぜか両軍は攻撃を開始せず、そのうち暴風雨に見舞われ兵員の四分の三を失い退却する事態となった。かろうじて本土が占領される事態には至らなかったのである。しかし、元軍撤退後も今津、姪ノ浜、博多、箱崎などに警備兵が配置され、元軍の再々来の危惧はいつまでも消え去ることはなかった。博多の櫛田神社、筥崎宮、承天寺などに、沈没した元船の碇が保存されている。
福岡市の東公園は、かつて「千代の松原」といわれたところで元寇の古戦場。公園内に、元寇の際に亀山天皇が敵国降伏を祈願した故事にちなみ、衣冠束帯姿の亀山上皇銅像(写真左上)が建っている。像高は4.7メートル。博多出身の山崎朝雲の作で明治37年に建立された。台座の「敵国降伏」の文字は、有栖川宮熾仁親王の筆によるものである。公園の西には蒙古襲来を予言した日蓮上人の銅像が建っている。東京美術学校の竹内久一教授が原型を製作したもので、亀山上皇像と同時期に完成している。像高は10メートルを超える大きなものである。台座のレリーフ8面は矢野一嘯の作で蒙古襲来の場面などが描かれている。−平成17年− |