・・・高麗の兵船四、五百艘、壱岐対馬より上りて、見かくる者をうち殺し、狼藉す。島民ささえかねて妻子を引具して深山に逃げかくれにけり。・・・<八幡愚童訓>
壱岐は、元寇によって対馬とともに多数の島民が犠牲となったところである。島は、文永の役(1274年10月)に続き二度までもフビライが画策した日本遠征軍によって蹂躙された。
弘安の役(1281年5月)では、守護代・少貳資時が瀬戸灘に侵入した元の東路軍と戦い戦死。19歳の若さだった。瀬戸浦を望む高台(少貳公園、芦辺町)に元寇古戦場の碑が立っている(写真左)。
碑の近くに、弘安の役で戦死した少貳資時の墓や、資時を祀る壱岐神社がある。元寇の犠牲となった島民を葬った千人塚(写真下)がここ少貳のほか箱崎中山触や箱崎新田、波止町など各所に築かれ、いまなお生花が絶える日はない。
弘安4年5月、壱岐を出て北九州沿岸を侵略した東路軍は、同年6月、博多湾から撤退し再び壱岐に戻り、追撃する筑前、肥前、薩摩、肥後の御家人と戦闘を展開していた。元の東路軍と江南軍はもともと壱岐で合流する計画であったが、江南軍の出発が遅れ合流したのは弘安4年7月になってからだった。兵員14万の軍船が肥前の海上に浮かんだ。しかしなぜか元の両軍は動かず、20日間余停泊するうちに暴風雨に遭い、兵員の四分の三を失い、フビライの二度目の日本遠征も失敗に終わったのである。
少貳公園から瀬戸浦を見下ろすと、青く澄んだ海が静かに時を刻んでいる。公園に咲く山茶花は鎮魂花。
アジアに目を向けるとき、東路軍を構成した高麗もまた、元の侵略によって20万人余の犠牲者をだした国だった。ビルマもジャワもベトナムなどの東南アジア諸国もまた元の侵略によって大きな被害を受けた。憎むべきは平和主義を唱えながら消えることのない人の心に潜むいやしき征服欲、権力欲というべきであろう。フビライもまた例外ではなかったのかもしれない。−平成18年1月− |