京都
丹波の庚申塔−綾部市小畑−
 近畿地方において庚申信仰の遺物である庚申塔を野辺に見出すことはまれである。庚申塔は庚申信仰のいわば記念塔である。庚申待ちの回数が節目に到ったときなどに講中(信仰グループ)によって造立されたのだろう。
 庚申塔は仏式、神式の二様式がある。仏式は青面金剛像を石碑の中央に配したもの(像刻塔)と庚申ないし庚申尊天、庚申供養塔等と文字を刻したもの(文字塔)の二種類がある。神式のそれは猿田彦大神等と神名を刻する。
 近畿地方においては、庚申塔を見かけることは少ない。加えて、神式の庚申塔を目にすることはほとんどなく、四国或いは九州における庚申塔の諸相とは大いに異なる。また仏式の庚申塔につき像刻塔は少なく福知山市、綾部市等の北近畿地方の山岳部で確認できる程度である(写真下)。近畿地方においては、たぶん著名な寺社が多い地域的事情から、雑行が禁じられなかったにせよ人々の関心は夜っぴて庚申待ちに信心の灯をともすまでには至らなかったのだろう。もっとも、洛中には八坂庚申堂や大阪には四天王寺に庚申堂がありそれらの本尊である青面金剛の御影が像刻塔の手本になったと私は考えるが、一般的に節目、節目に庚申塔を造立しなくとも青面金剛の御影を軸にして、掲げ、庚申待ちを行っていたことは十分に考えられる。全国にはそのような事跡を示す青面金剛御影が随所に存在し、また街部においては、講を結成するまでもなく著名な庚申堂へ参拝でき、そこで庚申待ちをする者すら八坂庚申堂などではみられるという。
 過日、丹波の農村で仏式の庚申塔(写真上)をみかけた。綾部市の小畑から大江に通じる道路端にその文字塔はある。この辺りは由良川の支流・犀川のそのまた細流に開けた山間地である。犀川を降った由良川の対岸に観音寺(福知山市)と呼ぶ古刹があり、庚申堂がある。小畑の講中の者が、60日ごとに巡る庚申の日に毎度、観音寺に参拝というわけには行くまい。地区の人々は講中で庚申待ちを行い、節目に庚申塔を造立し、逆修の願をかけたのだろう。上部に天蓋を彫り、主尊の種子(しゅじ)はカーン(不動)に読める。中央に庚申塔と彫り、その下部に蓮華座がみえる。さらに、その下に願文が彫ってあるはずであるが、五輪塔の残欠などに塞がれ確認できない。庚申塔は多分、江戸時代のものかと思われる。天蓋や蓮華座などが刻まれており北近畿では珍しいものだ。部材の形式が関東地方の板碑の様式に似ており興味深い。
 仏式の庚申塔に、像刻塔と文字塔があることは既にしるしたとおりである。綾部市の山家城址近くの道端に青面金剛と文字で刻した庚申塔(写真下)がある。同種のものが奈良県桜井市の海石榴市観音の境内にある。この種の庚申塔は近畿では珍しい。加えて、青面金剛の文字塔の脇に廻国塔が並んでいる。自然石の中央に南無阿弥陀佛供養塔と刻し、その右側に 四国 西国 、左側に 秩父 坂東 と刻まれている。四国88箇所、西国33観音霊場、秩父34観音、坂東33観音を略記したものであるが、合わせて188霊場巡拝の達成記念塔であろう。記銘が見当たらないが願主は巡拝の先達であろうか。供養塔を眺めていると、当時の庶民信仰の様子がわかり興味深い。大事にしたい記念塔である。-平成20年8月-
庚申塔
(京都府綾部市山家)
廻国塔
(京都府綾部市山家)

雲原の庚申塔
 近畿地方における庚申塔は仏式の文字塔が主流をなし、その数は少ないなりに近畿の北部地方に集中しているように思われる。
 奈良・明日香村に所在の庚申塔に、その上部に月(三日月)と日を刻したものがある。庚申信仰が日待・月待信仰と習合した特徴がみられる(明日香の庚申塔)。庚申塔の相当古いものにも日月を刻したものが多い。同様の庚申塔が北近畿の福知山市大江町雲原等に遺存する。雲原の庚申塔には仕上がりの良いものが多い。
 雲原は大江山連邦の南麓に位置する丹後境の村。今は福知山市に属しているが、合併前は京都府天田郡雲原村、丹後(与謝郡)に属したこともある村であった。村の北に大江山連邦が聳え、与謝峠を超えると丹後の加悦谷。三岳山麓にも近く、雲原は交通の要所地にあり、峰山や宮津から与謝峠を超え長い急坂を下って来た旅人はここから但東の出石(兵庫県出石郡但東町)、大江(現在は福知山市)、福知山(市)などに向かった。雲原川
在福知山市上佐々木。縦横約1メートル。塔の上部に日・月、下部に鶏(2羽)を刻む。
在雲原堂前の庚申塔。享保18年4月の記銘がある。
が村の中心部を貫流する。八つ手のようにいくつもの支流をもつ水害の絶えない暴れ川だった。戦前、村長の熱意を感じ取った高橋是清の肝煎りで当地で進められたいわゆる「雲原砂防」は、農地・宅地改良等を併せ行う砂防工事の模範となり、基本的に今日の砂防事業は雲原砂防の手法を踏襲する。指導に当たった赤木正雄技師(当時内務省土木局)は豊岡出身で近代砂防の父といわれる人である。村の中心地に顕彰碑がある。
 交通の要路にある雲原住民は厳しい自然と向かい合ってきた。幹道(府道)沿いのお堂の前や大江に向かう道端、或いは福知山市街への分岐点に当たるに上佐々木や丹後への間道の集落・橋谷などに庚申塔が建っている。それらは花崗岩の自然石や整形した舟形石を青面金剛を刻んだ像刻塔や庚申供養塔等と刻まれた文字塔である。雲原から大江市街に向かう道筋の庚申塔(写真上)の像容をみると、一面六臂で焔髪、右手に鉾、三鈷剣、矢、左手に宝輪、羂索、弓を持ち、目はカッと見開き歯をむき出しにした形相である。裳は地蔵菩薩を思わせ、かなり簡略化されたたっちである。さらに、塔の上部に月日、下部に猿、鶏がそれぞれ向かい合う姿で浮彫りされている。雲原の庚申塔の像容はどれも大体同じである。造立年の記銘は読み取りにくいが、堂前の庚申塔(写真右下)に享保18(1733)年4月と造立年がしるされ、造立者は講中とある。全国的に庚申信仰が盛んな時期に造立されている。江戸中期のころには農民の生活も安定期にあったとみられるが、福知山藩は、享保年間中に旱魃や疫病の流行をみており、こうした災禍退散の願いも込め庚申塔が造立されたのだろう。
 雲原は水のおいしいところ。その頂上に神が宿るという八幡山(写真下)がある。森に降った雨が浄化され、花崗岩の岩から湧き出る水はことのほかおいしく、‘てんやの水’として知られている。昔、雲原の旅籠がこの湧水を使ってトコロテンをつくっていたところから、転じて、てんやの水と呼ばれるようになったよしである。夏でも身を切るような冷たさがある。−平成22年8月−

参考 : 九州の庚申塔 明日香の庚申塔 庚申塔(庄原市) 庚申コンニャク(大阪市) 丹波の庚申塔   槇川の庚申さん 出石街道の庚申さん 北近畿の庚申信仰