九州絶佳選
福岡
怡土(いと)城-前原市-
  北部九州の糸島半島の付け根に前原市がある。市の南部に聳える雷山(955.4b)から糸島半島に向かってゆるやかに傾斜した平野がひらけ、半島の付け根あたりに市街が発達している。雷山の山麓から眺める前原のびやかな田園風景は、大変美しいものがある。春秋の風景は特によい。
 
前原は魏志倭人伝が伝える伊都国に比定されているところ。邪馬台国の一大卒が置かれ大陸との交流の拠点のクニだった。支石墓(写真左、左は支石墓から可也山を望む遠景)、甕棺墓、方形周溝墓など弥生時代の遺跡が濃密に分布する。
 三雲・井原遺跡は瑞梅寺川と川原川に挟まれた弥生時代中期の広大な遺跡。石棺墓や甕棺墓、ファイアンス玉、楽浪系土器などが出土し、極東の国際都市の様相を秘めている。大陸との往来が頻繁に行なわれていたのだろう。同遺跡の三雲南小路(遺跡)からは、甕棺二基から計57面の前漢鏡や青銅器等が出土している。堂々とした王墓だった。近年、三雲・井原遺跡の西方の丘から原田大六氏によって弥生時代の方形周溝墓(平原遺跡)の発掘調査が行われ、王墓にふさわしい豪華な副葬品が出土した。前原はまた、神功皇后にまつわる伝説、遺跡や築山古墳(前方後円墳)など弥生時代に続く時代の遺物、遺構も多く、町全体が古代のタイムカプセルのようなところである。
  さて、西暦663年、ヤマト王権は、白村江の戦において唐・新羅の連合軍に破れ朝鮮半島から撤退した。忍び寄る大陸からの軍事的脅威は、大宰府周りに水城(写真左下)や大野城基肄城などの山城の築城に為政者を駆り立てた。その恐怖は消えることなく永く為政者の脳裏に刻まれたことであろう。
 大宰府周りの水城、大野城等の築城から約百年後、天平勝宝8年(756年)から約12年を要して吉備真備が怡土城を築城した、と続日本紀は伝えている。吉備真備は時の大宰大弐。真備は遣唐使の経験があり、大陸の事情に明るかったところから、築城の前年に勃発した安禄山の乱を憂慮して、国土防衛の布石を打ったとする説があるが、不明なところが多い。 高祖山の山裾に2キロにわたる土塁や濠、水門、望楼跡などの遺跡がある。大鳥居口辺りの土塁上に怡土城跡の石碑が建っている。
怡土城遠望
怡土城跡の碑 怡土城土塁 怡土城建物跡

怡土城と防人
 ヤマト王権は、白村江の敗戦後、国土防衛策の一環として天智3年(664年)に壱岐、対馬、筑紫に防人を配置する。防人の具体的な配置箇所や生活ぶりは定かでない。僅かに、万葉集の詠歌によって博多湾に浮かぶ能古島に防人が配備されていた1例を知るのみである。はじめ東国の民が防人に当てられたが、延暦14年(795年)、壱岐対馬以外の防人は廃止され、以降、九州の民がその任務に就くようになる。
 
能古島
防人が辺境の警備に一体、どれくらい動員されたのかはっきりしないが、大体3000人の定員ではないかといわれる。防人には休閑地があてがわれ、食料を自給し、10日に一度、休日が与えられた。壱岐対馬の防人は概ね9世紀末葉にはその姿を消したようである。
 筑紫に配置された防人は、怡土城において自給自足の生活を営んでいたと称える者がいたように記憶しているが、思い出せない。怡土城から海を見渡せ、船の管理を行う主船司(現在の周船寺)が城に近く、新羅の侵攻等の有事の対応に即効性が期待できる。怡土城はたぶんそのような使われ方をした時期もあったのではないかと思われるがよくわからない。
 大野城、基肄城や防人の配置等、白村江の敗戦に伴う一連のヤマト王権の軍事強化策は、みな相互の施策に関連性があるのではないか。私たちは、筑紫の大野城、基肄城或いは対馬の金田城を見学するとき、築城に途方もなく膨大な労力を必要としたことを容易に理解できる。それは土木作業にとどまらず、建築工事にも及んだであろう。これだけの公共事業を九州の民によってすべてをカバーすることは到底不可能であろう。私は、防人がこれらの築城にも関わったのではないかと考えるのである。天平勝宝8年(756年)にはじまった怡土城の築城にも防人が当てられたであろう。
 万葉集に防人の歌が百余首採録されている。これらの防人歌は、天平勝宝7年(755年)、つまり怡土城の築城がはじまる前年に、大伴家持によって難波津で採録されたものである。大野城、基肄城の築城から約百年を経過し、ヤマト王権はまた新たな大公共事業を企図した。はるばる東国から3年間、筑紫へ遣られる防人は何も語ってはいないが、厳しい労働を伴う任務であったに違いない。だからこそ、家持は天平勝宝7年の防人の歌を採り上げたのであろう。しかしそこには、任務への忠誠を誓うものはほとんどなく、ただただ父母、妻子との別れのつらさ、悲しさを詠うものがすべてといってよい。牛麿や廣目の歌などは悲痛である。牛麿は・・・父母に物言ず来そ・・・と嘆いている。それほど急な徴用が行なわれたことを暗示しているように思う。-平成17年-
  水鳥の発ちの急きに父母に物言ず来そ今ぞ悔しき
                    <万葉集 上丁有度部牛麿>
  吾等旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむわが妻かなしも 
                     <万葉集 玉作部廣目>