大石内蔵助良雄の祖先−大津市大石町− |
大津市南部に大石という町がある。地区を貫流し流下する瀬田川の激流が河岸を洗い、奇勝を呈するところ。当地に佐久奈度神社が鎮座する。延喜式の式内社に列せられた古社である。大石の狭隘な地勢はここが米麦の生産地ではなく、宇治、山城に通づる政略的要衝として押さえられ、繁栄した所のように思われる。田上山にも近い。山から切り出された藤原京或いは東大寺など南都寺院の建築用材は、瀬田川で筏に組みこの大石の喉仏を通過して、宇治川を下り、小椋池を経て今度は木津川を遡行した。木津で陸揚げされた木材は奈良坂を越え平城に運ばれたのである。
大石は、忠臣蔵でよく知られた大石内蔵助良雄の祖先の発祥地である。浄土寺(大石東町)の裏山に大石家の祖先の墓が営まれ、屋敷跡(写真上)がある。もともと当地大石は藤原氏が領有した大石荘の故地である。大石内蔵助良雄の祖先が大石荘の下司職を務めてから当地と大石家との接点ができたようだ。応仁の乱のころ大石一家は断絶の憂き目にあい、遠縁から人を得て再興されたという。大石内蔵助良雄から数えて五代の祖、大石九衛門良信は八幡城主豊臣秀次に仕えた人。寺の裏山の五輪塔はこの人の墓である。良信の次男良勝は浅野家に仕え、代々筆頭家老を務めた。時を経て大石内蔵助良雄の代、時は元禄15(1702)年、同士とともに吉良邸に討ち入り、主君浅野内匠頭長矩の仇を討ったのである。中世以降、仇討ちは、武士道の興起とともにしばしば武人の間でおこった。曽我兄弟の仇討ちや大規模には羽柴秀吉の山崎の合戦や毛利元就の厳島の戦いなども主君の無念を払う敵討ちであったのだろう。今は昔、浄土寺の裏山に静かなときが流れている。−平成20年10月− |
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浄土寺 |
瀬田川 |
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