近江鉄道桜川駅から東へ2キロ余のところに石塔寺という古寺がある。西方に近江富士(三上山)の山頂部を仰ぎつつ行く近江路に、このあたりほどほのぼのとした雰囲気が漂うところはない。
昔、当地は多くの百済遺民が住まいしたところ。斉明6(660)年、百済が滅亡すると、日本は鬼室福信らの要請を受け、百済復興をかけて朝鮮半島に大軍を差し向けたが、陣頭に立った斉明天皇が筑紫の朝倉橘広庭宮で崩御。中大兄皇子(後の天智天皇)の称制がはじまり、朝鮮半島に軍を差し向けたが同2(663)年8月、日本軍は白村江において唐・新羅の連合軍に狙撃され敗退。同年9月百済国の高官や農民など遺民が大挙して日本に渡来する事態となった。
日本は白村江の戦によって朝鮮半島から叩き出され、以後対馬や壱岐に防人や烽(すすみ。のろし)を配置し、筑紫(水城の記憶、大野城址、基肄城址、怡土城と防人)、長門、讃岐(屋島)、大和(高安)に城を築くなど国土の防衛に専念しつつ百済、後には高句麗の総数6千人とも1万人ともいわれる遺民を受け入れた。
天智称制4(665)年2月には400人の遺民を近江国神前郡に住まわせ、翌3月には田を給している。日本書紀は、「・・・百済の国の百姓男女四百余人を以て近江国神前郡に居く。・・・是の月(同年3月)・・・神前郡の百済人に田を給ふ。・・・」としるす。さらに、天智称制7(668)年3月、近江遷都がなり同年7月中大兄皇子が皇位につくと翌天智8年(669)12月百済の佐平自余信、佐平鬼室集斯ら男女700余人を蒲生郡に遷居している。日本書紀は、「・・・佐平自余信、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)等男女700余人を以て、遷りて近江国蒲生郡に居らしむ。・・・」としるす。鬼室集斯は、日本に援軍支援などを要請し、その最期は百済国の内訌によって斬られた鬼室福信の子とみられる。集斯が天智10年に小錦下(官位26階の12番目)の冠位を得たのは、父親福信の功労への評価と考えられるが、学頭職に処せられており、たぶん朝廷に近侍した者であろう。集斯が渡来後、天智8年に蒲生郡へ移住する間、彼がどのような処遇を得ていたのか書紀はしるしていない。たぶん、百済と本邦の位階制の違いからみなし冠位の調整乃至は冠位授与後の遷居地や随伴農民の選定などに4年近くの時間を要したということであろうか。
近江の神前郡、蒲生郡に落ち着いた百済の農民の生活ぶりは知るよしもないが、日本書紀に天智2年から3年間、官から食料が給された記録があり、近江両郡に帰住の遺民らにも同様の援助を行いつつ近江平野の湿田の開墾、乾田化に当たらせたのであろう。百済の遺民たちは、いつの時代にか、信仰の象徴として高さ約8メートルもある巨大な重層石塔(写真上)を造りあげた。形状は奇古。一見して本邦の石塔とは異なるイメージである。韓国の慶州に所在する仏国寺などの三重石塔に非常に近いものを感じる。各層の軸部が長く、塔は天にのびている。百済遺民が神前郡や蒲生郡に定住してそう時間を経ない時期に造立されたものであろうか。
石塔寺には、聖徳太子建立の48か寺中の最終の寺との伝がある。また三重石塔は阿育王が神通力により諸国に散布した八萬四千の舎利塔の一つであり、山から掘り出され宝塔を奏聞して石塔寺が建立されたという伝があるようである。
いつの時代にか、三重石塔が立つ弧峯の頂上周辺は、逆修や追善供養の趣旨により造立された双体仏、五輪塔、宝篋印塔、板碑などおびただしい石仏や石塔婆で埋まるようになった。それらの石造群は、この寺が聖徳太子の48か寺中の最終の寺である由縁を示しているようにも思われる。孤丘で苔むした双体仏が、父恋し母恋しとてこの山に登った名もない人々の悠久の祈りを伝えている。−平成21年1月− |
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