小野妹子の子に毛人がいる。天武朝の刑部大卿として活動し、天武6(677)年没。この毛人の墓が京都左京区上高野西明寺山にある崇道神社の後山に築かれていて墓誌が出土している。墓誌は江戸時代から知られていたようであるが、大阪府羽曳野市古市所在の西琳寺所蔵の船首王後のものに次いで古い。長さ約60センチメートル、重さ約1キログラムである。墓誌の銘文はつぎのとおりである。
飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上 墓誌表面1行書き
小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬 裏面1行
銘文中に、「朝臣」の姓がみえ、「大錦上」の官位がみえる。朝臣は書紀によって天武13(684)年制定の八色の姓によって創設された姓のひとつで、52氏に賜姓されている。元臣姓の有力氏族に賜姓された。墓誌は八色の姓の制定年より7年先行している。そうすると、毛人は制度創設よりかなり早い時期に朝臣姓を名乗っていたことになり、制度の先行期があったことを示している。制度創設の意義を考えるひとつのヒントを提供しているように思われる。続日本紀の小野朝臣毛野の伝中に、小錦中毛人とある。墓誌によって大錦上であったことは明らかであり、資料で実証されており、正史は訂正されるべきものであろう。
加えて墓誌は昔の小野村(大津市小野)ではなく愛宕郡修学院村崇道神社(京都市左京区上高野)の後山から出土している。小野村には式内社小野神社があり、なぜ修学院村に墳墓が造営されたのか。当地は小野村の西方に当たり、多分この辺りも小野氏の勢力下にあったことを示してはいないだろうか。小野毛人墓誌は、尽きない話題を提供している。 |