大阪
遣隋使 小野妹子墓−南河内郡太子町山田−
 二上山の西麓の、なだらかな山麓に稲穂が揺れ、眼下に南河内の平野が展開する。その遥か西方に瀬戸内海が白く際立ち、明石大橋がうっすらとみえる。この山麓中腹の小高い丘の頂上に、遣隋使・小野妹子のそれと伝えられる墓(写真左は妹子墓遠望)があり、樹林をなしている。
 推古15(607)年、難波津から瀬戸内海に漕ぎ出し、二度までも大陸に向かった小野妹子の墓だ。「日出處天子致書日没處天子無恙伝々」。隋の煬帝を驚かせた推古天皇の摂政聖徳太子が主導する外交文書は妹子が携え、眼下の平野を流れる大和川を下って大陸にわたった。復路、妹子に伴われ来朝した隋使裴世清が遡った川も大和川である。妹子は、帰国の翌年再度、南淵請安、高向玄理、僧旻らとともに隋に渡り、蘇因高と呼ばれた。日本が大陸、朝鮮半島諸国と交通を持ち始めて以来、外交は渡来人によって行われていた。一口でいえば通訳外交であったが、太子が妹子をたて大陸に雄飛させ、国書が改ざんされることもなく煬帝に届いたことは、自主外交が拓かれた画期的な事件であった。(参考:聖徳太子の外交
 妹子は滋賀県大津市小野の出身で和珥臣と同族といわれる。日本と中国遣隋使船計3回、その後犬上御田鋤を第1次とする遣唐使船が計19回、隋・唐に派遣され、寛平6(894)年に廃止。遣使船は通常4隻で船団を組み、はじめは新羅を経由し中国に向かったが、朝鮮半島情勢の悪化にともなって、南西諸島を経由したり、奄美から東シナ海を横断して中国に向かうコースが選択されるようになる。乗員は大使や副使は無論、医師、陰陽師、卜部、留学生、訳語、画師、学問僧などが乗り込み、総勢250人から550人にも及んだ。中国の諸制度が留学生などによって学習され、わが国の諸制度が整ってゆく一方、使節は商品を携え、帰途返礼品を受けるという公的貿易組織としても機能したことであろう。 
 推古天皇、聖徳太子、小野妹子の墓がいずれも太子町に所在するというのも、遣隋使に関わる瀬戸内海或いは大和川がみえる当地が選定されたというべきか。
小野妹子の墓 推古天皇陵

小野毛人墓誌
 小野妹子の子に毛人がいる。天武朝の刑部大卿として活動し、天武6(677)年没。この毛人の墓が京都左京区上高野西明寺山にある崇道神社の後山に築かれていて墓誌が出土している。墓誌は江戸時代から知られていたようであるが、大阪府羽曳野市古市所在の西琳寺所蔵の船首王後のものに次いで古い。長さ約60センチメートル、重さ約1キログラムである。墓誌の銘文はつぎのとおりである。
   飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上    墓誌表面1行書き
   小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬           裏面1行 
 銘文中に、「朝臣」の姓がみえ、「大錦上」の官位がみえる。朝臣は書紀によって天武13(684)年制定の八色の姓によって創設された姓のひとつで、52氏に賜姓されている。元臣姓の有力氏族に賜姓された。墓誌は八色の姓の制定年より7年先行している。そうすると、毛人は制度創設よりかなり早い時期に朝臣姓を名乗っていたことになり、制度の先行期があったことを示している。制度創設の意義を考えるひとつのヒントを提供しているように思われる。続日本紀の小野朝臣毛野の伝中に、小錦中毛人とある。墓誌によって大錦上であったことは明らかであり、資料で実証されており、正史は訂正されるべきものであろう。
 加えて墓誌は昔の小野村(大津市小野)ではなく愛宕郡修学院村崇道神社(京都市左京区上高野)の後山から出土している。小野村には式内社小野神社があり、なぜ修学院村に墳墓が造営されたのか。当地は小野村の西方に当たり、多分この辺りも小野氏の勢力下にあったことを示してはいないだろうか。小野毛人墓誌は、尽きない話題を提供している。