奈良
二上山−北葛城郡当麻町−
 奈良盆地の西方、大阪府との境に二上山(にじょうざん)がある。雄岳(540b)、雌岳(474b)からなるコニーデ式火山の山容は、美しく、荘厳な趣がある。大和の人々の情感を育んできた山は、古くは「ふたかみやま」と呼ばれ、喜怒哀楽を山に託した人も多いことであろう。大津皇子と同母姉の大伯皇女もまたそのようなひとであろう。
 天武元(672)年、天智天皇が崩ずると皇位継承問題を端緒にして約1ヶ月に亘った壬申の乱を制したのは大海人皇子(後の天武天皇)だった。
 乱後、天皇は吉野に草壁皇子、大津皇子、高市皇子ら皇子を集め、再び皇位継承をめぐる争いがおこらないように誓約させた。第1子高市皇子、第2子草壁皇子、
第3子大津皇子等が集まった。高市皇子の母は北部九州の豪族胸形君徳善の娘尼子媛。卑母であったため壬申の乱の当時、19歳で大海人軍の指揮官であり最大の功労者でありながら、高市皇子は朱鳥元(686)年、天武天皇の崩御後の皇位継承には自重するところがあった。草壁皇子は天智天皇の子鵜野皇女(後の持統天皇)を母とする日並皇子。万機を委ねられた皇太子。天智天皇の子大田皇女を母とした。大田皇女は鵜野皇女の姉にあたる人。草壁皇子、大津皇子ともに母の出自がよく、年端もゆかない10才余で壬申の乱に参戦した皇子たちであった。皇位継承のライバル同士といったところであろう。
大津皇子二上山墓
二上山
 天武天皇がこの世を去ったとき皇太子草壁皇子は25歳、後継の天皇となるべきところであったが即位せず鵜野皇女の称制がしかれた。その経緯はよくわからないが、皇女に壬申の乱の悪夢がよみがえったのか或いは草壁皇子に健康上の理由が存在したのかもしれない。皇子が28歳で薨じているので後者の理由であったのかもしれないが根拠に乏しい。大津皇子の挙動に疑念を抱いた鵜野皇女が草壁皇子の即位によって混乱が生じる懸念を避けるための称制ではないかと思ってもみる。
 大津皇子は父天武天皇の崩御後、伊勢神宮の斎宮であった実姉大伯皇女を訪ねている。万葉集に、大伯皇女の歌が載っていて、「大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首」がおさめられている。うち一首に「二人行けど 行き過ぎかたき 秋山と いかにか君が ひとり越ゆらむ」とある。題詞にひそかに伊勢の神宮に下りとあるから、歌に詠まれた秋山を「皇位」に置き換えれば真意がよくわかるのではなかろうか。姉は、弟が皇位に就く難儀を案じて、いかにか君がひとり越ゆらむ、と案ずるのである。歌の背景をそのように思うと、伊勢に姉を訪ねた大津皇子は胸中を大伯皇女に打ち明けたに違いない。打ち明けないまでも、夢が敗れたときのいとまごいと姉は察したであろう。大津皇子が一味三十余名とともに捕らえられ、訳語田(おさだ) に死を賜るまでにそれほどの時を経なかった。天武天皇の崩御から25日目に24歳の若さで大津皇子はこの世を去ったのである。妃の山辺皇女は、遺体にとりすがり殉死をとげる。二上山の雄岳山頂に大津皇子の墓(写真左上)がある。
 伊勢の斎宮を解かれ大和に戻った大伯皇女。「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟と我が見む」(写真上は明日香村から遠望)と詠うのである。