奈良
木地屋の故郷-吉野郡川上村高原-
 近畿の屋根、大台ヶ原に連なる大峯山脈の高峰が重畳をなす。その山懐にぽっかりと浮かぶ集落がある。川上村高畑である。盛夏の緑陰にさわやかな風がふいている。
 高畑は、滋賀県永源寺町の小椋谷(蛭谷・君が畑)、奈良県大塔村の篠原とともに木地屋(或いは木地師)の故郷としてきこえたところ。ロクロを用いて杓子や椀、盆などの製作を稼職とした。高畑の木地屋は文徳天皇の第1皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を職の祖神とし、同集落に岡室御所(旧跡が福源寺)があったと伝えている。そうすると高畑は、近江・永源寺の木地屋発祥説と同質或いは小椋谷の枝村として8世紀ころに立村したものであろうか。近江小椋谷の木地屋は、天皇の綸旨や信長、秀吉から得た免状を証にして、木地屋の近江根元説をとなえ、中世には氏子狩を行い、全国の木地屋を統率した。たくみで壮大な支配構造は、塩飽水軍の海上支配と似たところがある。
 高畑は大峯に近く、福源寺に平安末期から南北朝時代の多くの仏像や経典などを伝えており、それは吉野諸山への木地製品の供給にとどまらず、神仏の造像などにも携わった証ではなかろうか。後世、近江小椋谷の支配に服しながらも、高畑は独自の木地屋の伝統を継いでいたのではないだろうか。それはたぶん、8世紀をさかのぼる弥生時代にその源流があるのかもしれない。法隆寺の百万塔或いは唐古遺跡の高杯に残るロクロの痕跡はひょっとして高原の先人が刻んだものかもしれない。-平成21年8月- 

 高原集落の広報掲示板に、‘人生とは、辛さを味わってやさしさをまなぶこと’と墨書した半紙が掲示してあった。澄み切った深山は、愛と信とに包まれたこころやさしい人々がすむところだ。水が森を育て、高原は清純な草木に覆われている。峡谷からアマゴ釣の家族連れの歓声がきこえる。
福源寺
(川上村高原)
管理釣り場
(川上村高原)