奈良
率川今昔−奈良市−
葉根蘰はねかづら 今する妹を うら若み いざ率去河いざかわの 音のさやけさ 
                            〈万葉集〉
 奈良盆地は昔から水不足のはなはだしいところだった。一方、奈良県下の大台ケ原はわが国屈指の多雨地帯。降った雨は吉野川を流下し、下流の田地を潤し、紀ノ川と名を変えて紀伊水道に流入する。しかし、吉野川の水を奈良盆地の灌漑に使うことは容易なことではなかった。奈良盆地の農家は、6月〜9月までの灌漑期になると番水などの方法によって農業用水を管理し、水不足を凌いだ。
 河川水の水利権は通常、上流が持つ場合が多い。しかし、吉野川は紀州(和歌山県)が親藩であったためか下流部の発言権が強く、水利調整は困難を極めた。灌漑用水の導水は長年、奈良県の悲願であり続けたのだ。昭和62年、ようやく吉野川の分水を得て、約330キロ余の水路が敷設され奈良盆地は農業用水の飢餓からようやく解放され、課題は概ね解決をみた。快挙からたかだか二十数年しか経ていない。
 万葉集に奈良盆地の河川を詠みこんだ歌は多い。佐保川、吉城川、能登川、率川、飛鳥川などの詠歌がある。川は美しく、清らかなイメージで詠われている。吉野川のような都から離れた大河川には、歌人にはまた違った印象をうみ、人麿の詠歌のように幻想的で、怪奇なイメージの歌がある。身近な川は幼少期の印象が重なり、増幅され大きく、懐かしく、清らかにうつるのだろう。今、奈良市内のそれらの川端を歩くと、千年以上の時のうつろいがその原形を大きく変えたにしろ、みなささやかな小川に姿をかえている。
 万葉集にうたわれた率川(率去河。いざかわ)はまったくその川面すら思うことができない。率川は春日若宮の紀伊社のあたりに源を発し、高畑を西流し、猿沢池の東辺をくだり、佐保川に流入する延長4キロほどの川。いつのころか市街地を流れる率川は蓋をされ、「菩提川」と名を変えて都市下水に変わり、コンクリートの蓋は生活道路に変わった。奇しくも幅員2、3メートルの小路が率川の流路。路を辿ると、辻、辻に、橋の欄干の残欠(写真上)をとどめ、「率川」或いは「いざかわ」の銘が刻まれ、この川に寄せた住民の気持ちを思うことができ、下水の音にもさやけさを感じることができるのも皮肉である。
率川神社の三枝祭(ゆりまつり)−奈良市本子守町−
 率川の小路を行くほどに、どこからか笛、太鼓の音が聞こえる。今日、6月17日は率川神社のゆりまつり。大宝元(701)年制定の大宝令によって三枝祭りは国家祭祀とされ、後世に祭神が住む狭井神社(三輪山麓)のほとりに咲き誇っていた三枝の花(ササユリ)を飾って祀るようになったという。
 令義解をみると、神祇第六 凡壱拾弐条 孟夏の項に、三枝祭(さいぐさのまつり)が掲げられ、‘謂う、率川社の祭なり。三枝花を以って、酒吹iみか)に飾りて祭る。故に三枝といふ。’とし、‘天神地神は常典(令で定める祭祀)により祀れ’と規定している。
 当日、拝殿の斉庭に新酒が盛られた酒垂ノササユリが飾られ、神事が進む。誠にゆかしいものだ。こうした古いかたちのまつりが古色を失わず、人々の信仰に支えられ一時中断されたことがあっても復活し、連綿と受け継がれ挙行されていることは奈良の伝統力ともいうべきものだ。今年は、ササユリに蕾のものが多く、冷温等天候不順により開花が10日ほど遅れているようである。
 午後からは七媛七稚児行列があり、沿道を沸かせた。−平成23年6月−
ササユリで飾られ
た黒酒、白酒の酒
七媛七稚児行列

参考  鎮花祭と三枝祭