近畿風雲抄
奈良
女人高野(室生寺)−宇陀郡室生村室生−
室生寺五重塔 室生寺。近鉄大阪線の室生口大野駅から7キロ余。室生川の峡谷沿いの細道を行くと寺がある。宇陀山中の女人高野と称されるこの寺院は、天武天皇の9年、役行者小角によって開かれた。宝亀年間(770〜780年)に興福寺の賢憬(けんけい)が桓武天皇(当時皇太子)の病気平癒を祈って伽藍を建てている。もともと興福寺に属し、堂塔伽藍は賢憬の後を継いだ修円のころに完備。時を経て寺は衰滅し天長元(824)年に弘法大師によって改造された、と寺伝は伝える。元禄14年以来、真言宗。
 室生川に架かる朱塗りの反り橋を渡ると正面に表門。「女人高野」の石柱碑がこの寺の在り処を示す。当地は高野山に遠くはないが、高野は女人の入山を断じて禁じていた。弘法は願いの適わない女人のためにこの寺への参詣を許し、人々はいつしかこの寺を女人高野と呼んだ。
 寺は広大な境内の地形をそのまま活かして金堂、五重塔、弥勒堂、灌頂堂、僧房などが造営され、五重塔と金堂は天長期(824〜833年)、弥勒堂、灌頂堂は鎌倉期の再建。五重塔と金堂は弘仁時代の唯一の遺構。 表門の右手の参道を100メートルほど進むと左手に伽藍に通ずる石段がある。50段ほど上ると弥勒堂と金堂が平坦な境内に鎮まっている。金堂の西側から石段を上ると灌頂堂。さらにその西側の参道を上ると五重塔(写真上)が建っている。
 五重塔は弘法一夜造りの伝説がある。弘法の奇跡とみるほどに塔はこじんまりとして、瀟洒、まったく美しいものだ。塔は石垣積みの基壇上に建ち、方三間の桧皮葺、総高十六メートル余。柱は円柱、円の地垂木に角の飛檐垂木を重ねた二重軒に、三手先の組物。相輪がまた特異ですばらしい。水煙がなく、九輪の上に宝瓶をつくり、天蓋(宝蓋)が載る(写真下)。日本塔の相輪は水煙、宝珠などで飾るのが通例。この寺の相輪は水煙を置くべきところに宝瓶が置かれ天蓋がついている。その上に宝珠と連座が設けてある。まったく珍しいものだ。北魏の永寧寺の塔が「洛陽伽藍記」に「刹上有金寶瓶容二十五石」としるされており、室生寺五重塔の相輪の源流もやはり大陸に求めることができよう。宝瓶はよほど珍しいものであったようであり、弘法大師と守敏が請雨を祈願したとき、守敏が宝瓶に竜を封じ込んだという伝説を生んでいる。室生寺の相輪は薬師寺の東塔における天女のそれとともに、金工技術の高い水準を示して美しい。
室生寺五重塔の相輪 さて、室生寺の創建年代について、五重塔に露盤銘が残っていないなど手掛かりがなくはっきりとしない。寺は貞観8(866)年に勅によって龍王寺の称号を得ているので、伝えられるように寺の創建は宝亀から延暦年間とみて無理はないと思われる。しかし、五重塔が天平時代にまで遡ると仏教の変遷にも関わる興味深い示唆を見出すことができる。つまり室生寺は奈良時代に龍王寺と呼ばれて龍神社の神宮寺として存在していた。そうすると、寺は神仏混淆という日本的な思想によってこの山中に開かれ、後年の山岳密教寺院の先駆となったのではないかという示唆である。室生寺は、弘法大師との縁を伝える寺。しかし、弘法の出現より早くから存在し、寺の伽藍などのありようが密教寺院に吸収されていったということになれば、宗教史上の大きな潮流がこの幽峡から生じたことになる。弘法がこの寺を重視した背景が知られよう。
 室生寺は千年以上も塔を刺激し続けた風雪の重みによってその美しさと信仰の厚みを増し、寺を訪れる人々の心を魅了しつづけるのである。−平成19年10月−