奈良
鏡王女かがみのおおきみ−桜井市大字忍坂(鏡王女墓)−
君待つと我が恋居れば我がやどのすだれ動かし秋の風吹く
                  〈万葉集 額田王ぬかたのおおきみ
風をだに恋ふるはともし風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 
                 〈万葉集 鏡王女〉
鏡王女押坂墓 峡谷をなす山間に発する泊瀬川(初瀬川)が奈良盆地にひらけるところに金屋(桜井市)という町がある。近年、周辺の宅地開発が進み近代的な住宅が立ち並ぶところ。そこは古代、街路に椿が植わり、人々が行交い、八十(やそ)の巷をなし、歌垣などが行なわれた「海石榴市」という繁華なところだった。
 金屋の小橋に立つと、川の上流部に忍坂山(292メートル)が見える。ビュートの山容を陰口(こもりく)の泊瀬にうつす美しい山だ。その山の南山麓、粟原川に沿って忍坂集落がある。集落からさらに谷川に沿って山腹を行くほどに、舒明天皇の押坂内陵がある。さらに細い山道を100メートルほど行くと鏡王女の押坂墓(写真左)がある。辺りはのどかな山田の風情。訪れる人も少なく、墓前の八重桜が風に舞う。
 万葉集に鏡王女の詠歌4首が採録されている。天智天皇や藤原鎌足と交わした相聞歌や額田王と交わした歌などである。それらの詠歌や題詞などから鏡王女ははじめ天智天皇に愛され、のち藤原鎌足の正室となった人と推されるが、出生は謎が多い。おうように考えると、鏡王女はあえて父母の名を名乗らなくても、誰もが知っている人であった可能性もある。鏡王女の墓は舒明天皇陵とごく近い所にある。舒明天皇の父は敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子の子である。当地と天皇の父親との結びつきから陵墓が押坂に選定された可能性もある。舒明天皇の権力基盤が当地の豪族にあったと考えると、鏡王女は押坂を出自とする豪族の娘と舒明天皇の間にできた子と考える余地もあるだろう。
 鏡王女は額田王の姉と指摘する者もいる。この説も多分、標記の両者の歌などからの推測であろう。姉妹でなければ交わせないような背景を滲ませる。額田王が天智天皇との間にしのびよる秋風を感じながらも‘簾動かし’と気丈に期待感を膨らませると、鏡王女はわが身になぞらえて‘羨し’と言い、待ち恋いているのだったら ‘何か嘆かむ’ と檄をとばし、わが身の加齢を諦観にかえているように思われる。老境の二人の即興歌の感なしとしないが、この歌などは繰り返し詠むとやっぱり姉妹かなという印象をうける。
 この忍坂から粟原川沿いの幹道を4キロほど東に行くと、粟原寺址がある。草壁親王の追福の為に仲臣朝臣大嶋(中臣大嶋)が誓願し、比賣朝臣額田の手で着工。和銅8(715)年に伽藍が完成。この比賣朝臣額田こそ額田王であり、粟原が額田王の終焉地との伝承が地元にある。藤原鎌足が病気の際、その氏寺興福寺の開創を鏡王女が誓願したと伝えられており、姉妹ともに仏心を持ち長寿を全うした人物であったようである。天平12(683)年7月、鏡王女没。その死の前日、天武天皇の見舞いを受けている。−平成21年4月−