奈良
神杉の社(高天彦神社)−御所市鴨神−
高天彦神社参道 金剛葛城山の中腹に、高天彦神社というささやかな社がある。神社は円錐形の山容をなす金剛山直下にあり、辺りは水田が拓けた台地。戸数十数戸の民家がある。この台地を少し下るとまた、等高線に沿って水田がひらけ、大和盆地全体が見渡せる。
 神社の祭神は、高皇産霊尊たかみむすびのみこと。天孫降臨神話にいう高天原の主宰者である。高皇産霊尊の子栲幡千々姫が天照大神の子天忍穂耳尊に嫁ぎ生まれたのが瓊々杵尊ににぎのみこと。高天原から大己貴尊おおなむちのみことが治める出雲国に降った神である。その高天原こそ葛城の高天であると伝えている。日本書紀によると、推古28(602)年、「・・・皇太子、島大臣共に議りて、天皇記、及び国記、臣連伴造百八十部、并せて公民等の本記を録し・・・」と記されている。この天皇記、国記は皇極4(645)年、飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿が中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足によって殺されたとき、入鹿の父蝦夷は天皇記、国記を焼き払い自害した。船史恵尺が焼け残った一部を中大兄皇子に奉ったと伝えられる。船史は文筆事務に携わった百済系渡来人。敏達天皇の治世に登用された新来の史である。船史が天皇記、国記等の著述に関与した氏族であったことは、天皇記などの焼け残りを献上したと書紀にしるされていることでも察しがつく。古い記録を保存、管理したであろう西文氏が衰微した後、船氏によってしるされた天皇記、国記は日本書紀の編纂の注となったことであろう。重要であるのは天皇記、国記が聖徳太子(皇太子)と蘇我馬子(島大臣)によって編まれたという事実である。蘇我氏は葛城族の一流といわれ、書紀にもそれを示唆する記事がみえる。そうすると、為政者が他氏の家系を国史で謳歌するとも思えないから、高天原神話には葛城の高天を舞台とした葛城族の伝承が多分に織り込まれたと考えても条理を欠くものではないだろう。その葛城族の祖神が高天彦神社である。 

高天彦神社 高天原から大和盆地を望む