野中寺−羽曳野市野々上− |
野中寺は、叡福寺の上の太子、将軍寺の下の太子に対し、中の太子と俗称され、寺伝は聖徳太子と蘇我馬子の造立と伝えている。
野中寺辺りは、古くは野中郷といい、船氏が住まいしたところである。船氏は文筆事務を専門職とした新来の百済系渡来人。近くに西文氏がおり、いずれも史であった。
日本書紀は、敏達天皇の元年(572年)、高句麗の国書の読解につき東西の諸々の史を召して事に当たらせたが、船史の祖王辰爾ひとりが解読でき、天皇はいそしきかな辰爾、よきかな辰爾とほめ、今より始めて、殿中に侍れ、と言った故事をしるしている。史の新旧交替の出来事を如実にあらわした記事であろう。私はやはりこの寺は、船氏の渡来当初の居住地の詳細がどうであったにせよ、船氏が朝廷に登用され、聖徳太子、蘇我馬子発意の天皇記、国記などの編纂に携わる功労として下賜された氏寺ではなかったかと思う。伽藍配置は、飛鳥の川原寺に近く、法隆寺より古い形態であるという。塔址(写真上)、金堂址などが残っている。
飛鳥から白鳳期にかけて船氏一族が住職を務め、船史道昭がよく知られている。京都に宇治橋碑断石(写真左下)というものが残っていて、架橋の記念碑としてわが国最古のものであるが、碑断石によれば宇治橋の架橋者は道登、続日本紀では道昭となっていて食い違っている。宇治橋の上流にある網代禁制の太政官符を刻した十三重塔(写真右下)には道昭、道登両僧の名が刻まれ、帝王編年集成にも両僧の名を列している。心情的には道昭説をとりたい。道昭は遣唐使として入唐し、玄奘三蔵を師として禅宗を学んだ人。法相宗の祖、行基の師であり、諸国を巡回し井戸を掘り、橋の建設に功績を残した人である。橋は大化2(646)年にできているから道昭10代の事業である。 |
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宇治橋碑断石(橋寺) |
浮島十三重塔 |
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