京都
黄檗山万福寺−宇治市五ヶ庄−
 万福寺は、宇治駅の北東約三キロほどのところにある黄檗宗の大本山。禅宗寺院である。総門をくぐると、諸堂が直線上に並び、どっしりとした伽藍を松林に映している。総門、三門、天王殿、本堂(大雄宝殿)、法堂などの伽藍を広大な寺域に配置する。それらは代表的な明朝様式の大伽藍。諸堂が整ったのは寛文八(1668)年。本堂の釈迦牟尼佛、左右の二尊者像、両単に十八羅漢像を配する。 天王殿の本尊弥勒菩薩はいわゆる布袋和尚。法堂正面の巡照板は正覚をめざす雲水の誓の板だ。時を報ずる開版、廊下の瑠璃燈(ランタン)、卍の勾欄・・・読経は黄檗唐音で発せられる。なにもかも中国風のこの寺は、中国明末の僧・隠元隆g禅師の開山。
 承応三(1654)年、長崎に到着した隠元は興福寺に一年間滞在し中国禅の指導を行い、幕府の助力を得て宇治に入った人。
 堂宇の整備に四年の歳月を要し、隠元が法堂にのぼり開堂の式を行ったのは寛文三(1663)年。ここに黄檗宗は、曹洞宗、臨済宗と並ぶ禅宗の一派をなすに至ったのである。末寺は六百余寺を数える。隠元禅師は、そのころ沈滞気味に推移した日本の禅に光りを与えるとともに、自ら書画や詩文をよくし工芸、絵画のみならず明朝の煎茶式茶礼を伝え食文化などにも大きな影響を与えている。茶礼の後の普茶は門前から全国に普及した精進料理である。寺はまた鉄眼、鉄牛、了翁など多くの社会事業家を輩出した寺としてもよく知られている。
 伽藍の整備に貿易商の協力があり、諸堂の部材にシャムのチーク材が用いられている。隠元の来日、中国風の建築物と開山を支えた幕府や貿易商の存在など、鎖国前夜の日本の国情などを思うときこの寺への興味は尽きないものがある。初代の隠元以来、十三世まで住持は中国僧であったが、二十二世以降は日本僧が住するようになっているという。