堂宇の整備に四年の歳月を要し、隠元が法堂にのぼり開堂の式を行ったのは寛文三(1663)年。ここに黄檗宗は、曹洞宗、臨済宗と並ぶ禅宗の一派をなすに至ったのである。末寺は六百余寺を数える。隠元禅師は、そのころ沈滞気味に推移した日本の禅に光りを与えるとともに、自ら書画や詩文をよくし工芸、絵画のみならず明朝の煎茶式茶礼を伝え食文化などにも大きな影響を与えている。茶礼の後の普茶は門前から全国に普及した精進料理である。寺はまた鉄眼、鉄牛、了翁など多くの社会事業家を輩出した寺としてもよく知られている。
伽藍の整備に貿易商の協力があり、諸堂の部材にシャムのチーク材が用いられている。隠元の来日、中国風の建築物と開山を支えた幕府や貿易商の存在など、鎖国前夜の日本の国情などを思うときこの寺への興味は尽きないものがある。初代の隠元以来、十三世まで住持は中国僧であったが、二十二世以降は日本僧が住するようになっているという。 |