和同開珎(鋳銭之遺蹟)−木津川市加茂町銭司− |
国内最初の銅銭である和同開珎の鋳銭地が山城国の加茂にある。銅銭や銀銭、るつぼ、ふいご、銅滓、砥石などの遺物が出土している。木津川の右岸、国道163号線沿いのバス停銭司(ぜず)近くに石碑(写真左)が建っている。近くに高麗寺址などがあり、当地は古くは帰化人が多く住むところだった。鋳造の技人も住まいしていたことであろう。水運と技術者に恵まれた当地において、銅銭の鋳造が行なわれたしても何の不思議もない。夏草が茂る石碑の向こうから鋳あがったぴかぴかの銅銭を数える人が見えるような錯覚を覚える。
続日本紀は、和銅元(708)年1月、武蔵国秩父郡より和銅が献じられ、慶雲5年改め和銅元年とし、同年1月11日に大赦が行なわれたとしるす。銅は「・・・自然作成和銅・・・」と記され、純度の高い自然銅であったのだろう。地金や再鋳でない熟銅の献上は、朝廷を狂喜させたことであろう。続日本紀は大部をさいてこの産銅にまつわる記事をしるしている。翌2月には、催鋳銭司を置き、司に多治比真人三宅麻呂をあて、同年8月には「・・始行銅銭・・」とあり、銅銭の流通がここに始まったのである。古来から貨幣として扱われてきた稲米や絹布に代わり、皇朝十二銭の最後に鋳られた乾元大宝に至るまで、250年間にわたって銅銭は古代社会の信用経済を支えたのであった。しかし、貨幣の普及は遅々としていた。朝廷は、田の売買に銅銭を使うよう強制したり、蓄銭叙位法を制定し貨幣使用の奨励をはかるのであるが、その流通は、はじめ平城京の東西市など極めて限定された地域内であったようである。鋳銭地は山城、大和、河内、近江から太宰府等に広く分布する。−平成21年7月− |
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