京都
舞鶴・吉原の町並み−舞鶴市東吉原、西吉原−
 JR西舞鶴駅から1.6`ほどのところに吉原という人口約千人、410戸ほどの港町がある。そこは伊佐津川の右岸に所在し、街の中央部に笛ヶ浦(西舞鶴港の古名)に連なる入江(運河)を造り、住宅を張り付けた街区。入江も街路(路地)もみな直線で湾口の北方向に伸びている。入江の水面と住宅の庭との間には僅かな高低差しかなく、運河の両岸に漁船が係留されている。
 吉原の漁民はもともと伊佐津川の西に在って笛ヶ浦に流入する高野川の川尻、竹屋に住んでいたが、享保12(1728)年
吉原の家並
  吉原の入江
の大火を受け、田辺藩の命令によって現住地に強制移住させられたという。運河と背中合わせに住宅が建ち、表間口は狭く町屋風の2階建住宅が袖壁をしつらえ、隙間なく連なっている。裏庭は乗船口。乗り下りに都合よく海面すれすれに作ってある。干満差は1b未満。自然と人為が織りなす絶妙のバランスというべきか。もっとも今、漁家は対世帯比の1割ほどらしい。
 吉原はまた祭の盛んな街。夏の万燈籠(8月)、秋の太刀振(11月)など朝代神社の例大祭で賑わう街だ。また吉原に
集会所(日の出湯)
は銭湯「日の出湯」(東吉原。営業16:30〜20:00土曜日休業)がある。創業は明治期。一昔前、西舞鶴に28軒あった銭湯も現在は2軒。その銭湯中のひとつが日の出湯。浴場の2階は街の集会所(写真右)。この街の歴史を刻んで懐かしい。
 吉原の北に匂岬(におうざき)(標高53b)がある。ここは先の大戦中、砲台が配備されていたところ。戦後、舞鶴市によって公園化されたが今、周りの木が成長してベンチに腰かけて海景が見えなくなったのはもったいない。昭和40年ころ、日がな笛ヶ浦(西舞鶴港の古名)の景色に親しんだものだが…。
 丹後田辺藩から江戸に出て文章四名家とうたわれた野田(のだ)笛浦(てきほ)(儒学者で漢文家。最晩年は田辺藩家老)は、漢詩文で「…(よし)原瀑網 二翁崎(におうざき)漁舟…」(九景ヶ浦) と吉原や匂崎を詠いたたえた。笛浦の名も笛ヶ浦から採ったのだろう。匂崎から眺めるおぼれ谷に刻まれた海景は日本海の絶唱であるだろう。五老ヶ岳スカイタワーから見下ろす海景とはまた違うはずだ。−令和5年11月9日−