京都
祈りの海道(丹後半島・伊根七面神社)―与謝郡伊根町平田―

 京都の北部に丹後半島がある。日本海に突き出、北東に横たわる半島の突端に経ヶ岬がある。灯台のある岬は近畿の最北端。東方の彼方に越前岬(福井県)が微かにのぞいている。両岬を結ぶ海域の南側が若狭湾。
 日本海から吹き寄せる波涛が若狭湾岸の岩を砕き溺れ谷を生成し、海岸線は奇勝に富み美しい。
しかし若狭湾岸の博奕岬東方の瀬埼集落(舞鶴市)などでは厳しい北風対策として石垣や竹垣で防風垣が設えてある。東シナ海の奄美諸島の防風垣と相似た対策が採られ、若狭湾の大きさを改めて考えさせられる。
 初夏のころ車で宮津の天橋立に向かい、丹後半島を左回りに峰山の琴引浜辺りまで往き一巡する都合
10時間ほどの周遊計画をたてたところが自宅を出て天橋立を過ぎ周回道路(国道178号線)を往き、半島北部の伊根に入った途端、方向を変え、青島の海景や舟屋できこえる伊根(いね)浦に下りたのが運の尽き。寿命にお釣りがなくなるほど齢を重ねても気性は治らない。性懲りもなく気の向くままに動き回り結局、周遊計画は破綻した。しかし新たな発見もあって記憶に残る旅となった。

伊根の街並み 亀島遠景

亀島の海景
 伊根浦の東に亀島という標高220bほどの峻険の尾根がある。遠目に、亀が首を伸ばして泳ぐ姿をした亀島。尾根の西側直下に観光案内所があり、近くに青島や舟屋など伊根湾めぐりのフェリー発着場がある。小型遊覧船がミズスマシのように青い海に白い航跡を描いて美しい。
 海端の通りは観光客で溢れ人また人の波。車をあきらめ観光案内所前の駐車場に車を乗り捨て、フェリー発着場を過ぎ、漁港を往き人家の尽きるところまで歩きかけたが浜通りに観光客が絶えることはない。
 亀島の鼻に差し掛かったとき、亀島の岸壁に「くの字」に刻まれた石段が見えた。何気なく石段をのぼり始め標高50bほどのところが平になっていて忠魂碑が立っている。息が切れ小休止。木陰から、舟屋の海景が移ろう。

忠魂碑 伊根の海景1
伊根の海景2 伊根の海景3


 








 先に進むと、半分木陰に隠れた神社が現れた。社殿は南向き。千鳥破風(はふ)の本殿(身舎部)の前に向拝を設け、海老虹梁(えびこうりょう)をわたし本殿は向拝より一段高く設えてあり高低差は2bにもなるだろう。
 向拝周りの隅々に彫物が施され、鋭いノミ先で垢抜けした諸像を彫り出している。作風は質実で豪胆の趣がある。鋭いノミ先は龍、唐獅子、獏、麒麟(きりん)、菊、(たか)などの彫物にとどまらず向拝の(ぬき)や虹梁、持ち送り、手挟みに施され彫師のただならない意気込みが感じられる。
 
向拝の正面に宝珠を握りイラカをたて、左前方をにらむ龍が刻まれている。さらに千鳥破風の屋根の下に鰭鏑(ひれかぶら)懸魚(げぎょ)を下げ、(つま)に右前方をにらむ小ぶりの龍を設え一対の龍を演出している。細部にまで彫師の高い技量が感じられる。

七面神社 彫物(海老虹梁)
唐獅子と獏
手挟み(一対) 持ち送り















 彫師の銘板がなく作家の特定は困難。作風及び勧請(かんじょう)年(文政131830)年8月(後述))から見て、そのころ円熟期にあった丹波・柏原(かいばら)の中井権治(たちばな)正貞以外に彫師はいないだろう。深い樹林が覆屋となって彫刻の保存状態は良い。伊根には浦島神社(本庄)にも中井権治一統の彫物がある。


祭神勧請の疑問
 参拝者に伺うとこの神社は「七面(しちめん)さん(以下、「七面神社」という。)」と呼ばれる社であるらしい。七面さんは七面大明神の略称。神仏習合(しんぶつしゅうごう)の社であるようだ。
 七面大明神は法華経の守護神とされ、社伝によると創建は明和年間(1770年代)とされる。ところが創建から数十年経た文政131830)年8月、安芸(広島県)の厳島神社から宗像三女神中の市杵(いちき)嶋姫命を勧請し、多分この年に七面神社は仏塔として再出発し日蓮宗徒の信仰の核心とされたことであろう。
 その経緯について、不明なところもあるが私は次のように考えている。


厳島神社から市杵嶋姫命を勧請した意味
 日蓮宗では七面大明神の本地は弁財天としている。明和年の創建時は本山身延山から七面大明神を勧請したとみられる。しかし数十年後に改めて厳島神社から弁財天を勧請したわけはなんだったか。
 弁財天は厳島神社の宗像三女神中の市杵嶋姫命が本地という考え方がある。宗派により考え方の違いはあるが伊根の日蓮宗徒は、厳島神社の市杵嶋姫命を勧請し七面さんに併祀したと考えられる。
 さらに厳島はもともと龍神(海の神)を祀る神社で港町伊根の風土とよくなじみまた、丹後と平家(平敦盛は若狭守、同祖父忠盛は普請奉行として金剛院を修築)との縁から厳島神社から弁財天の勧請に執心したと思ってもみる。
それによって伊根の日蓮宗徒は七面さんを仏塔として宗徒が寄り合って読経できる環境を整えたというべきであろう。
神社を取り巻く藩政期の諸事情
 七面大明神が創建されたという明和年間の世相を考えると当時、江戸幕府は寺社奉行が神社仏閣の神主及び僧侶の管理は行っていたが神社仏閣の創設を許認可の対象とすることはなかった。
 しかし明和年間ころなると農漁民等の経済力や発言力の向上に伴って一揆が全国で頻発する一方、伊勢のお陰参り(史上2回目)が流行し幕府は農漁民の動きに目を光らせていたことも事実であろう。丹後からお陰参りをする者も少なくなかった。また伊根は北前船の風待ちの港として様々の情報があふれる巷を成していたと考えられる。日蓮宗徒ならずとも様々の情報に接し、幕府や藩政にとらわれない自由を獲得し、微かに燃え始めた民権思想にも興味を示し始めたことだろう。

 明和年間以降、厳島神社の本地仏・弁財天の勧請を巡る村内の各宗徒間のいさかいを匂わせる社伝や伊根特有の漁業権(土地所有権と一体となった株制度)につき特定層へ利権の固定化が進む状況のもと日蓮宗徒の不満の矛先が幕府に向くことを憂慮し、無言の圧力をかけ続けていたこともまた否定できない。
 数十年かけ堪え続けた日蓮宗徒はついに厳島神社から七面大明神の本地たる弁財天の勧請を果たし、宗徒自らの意思と行動によって他宗徒と同様に七面さんに集合し読経する環境をつくり得たのだ。勧請は伊根の日蓮宗徒の勝利宣言であった。


七面大明神の石塔のこと

供養塔

 七面神社の石段を上ると右手に石塔(供養塔)がある。表に南無妙法蓮華経七面大明神と祭神を記し、右側面に中央に先祖代々霊位と記しその左右に院号、日号を記した4霊の法名が記されている。左に女性・右に男性の日号が書分けてある。石塔左側に文久3(1863)7 鳥屋村○○(名前)母とあり造立者は女性であることがわかる。鳥屋村は今の伊根町平田(大字)の小字に「鳥屋」、「七面山」が、同様に亀島に「鳥屋」の小字が残っており、伊根浦の狭い空間になお小さな村 が存在していたのであろうか。当時、七面神社(仏塔)に僧が在籍し法名などを書き渡して石工が写したのであろう。文字の癖や文字間隔の不整合があり心温まるものがある。


 いつのころからか七面さんから僧侶が去り、今ほど記した石塔造立の5年後の明治元(1868)年に発出された神仏分離令によって、古来の神仏習合の風は消え、いま伊根の七面さんは平田地区全体の神社として祭祀が行われている。常緑樹で追われた亀島に柔らかな日差しを求め参詣する人もまた多い。
 伊根浦は湾口が南に開き青島が防波堤になり、三方が丘陵で塞がれた天然の良港。対馬海流が岸寄りになると越前岬にぶつかった潮が反転し、伊根の定置網の魚道は南口になり鰤、鮪、鰯などの大漁に恵まれるという。しかし味がよく、都マグロが名を成し正月のゴマメ(田作り)になる小魚などは飛び切り高価なもので、庶民にはなかなか手に入りずらくなった。通年の良い潮の到来を七面さんに祈願したくなるのも庶民の切実な願いであるだろう。‐令和8年5月‐