京都
金剛院今昔(真如親王の彷徨と悟道-舞鶴市鹿原-
 若狭湾に臨む舞鶴・鹿原(かばら)山の山裾に慈恩寺金剛院という古刹がございます。天長6(829年)年、真如上人(親王)が創建(開基)された真言宗のお寺でございます。 若狭湾の周辺や湾の南方に連なる山地一帯、地理で申しますと丹後・丹波の山中或いは山裾に飛鳥から鎌倉時代にかけ創建されたお寺が散在しております。廃寺になったところもございますが今なお参詣者の絶えない寺も多く、金剛院もそのようなお寺のひとつと存じます。
 金剛院創建の真如親王の元の名は高岳(たかおか)親王と申されました。法名は真如。後ほどご説明しますが故あって出家し円頂黒衣の法体となり空海のもとで修行し30歳ころ金剛院を開基された。空海の高弟でございます。空海が入定すると埋葬に立ち合いまた、東大寺大仏司検校に任じられ地震で崩れ落ちた仏頭の修繕や「胎蔵次第」を著すなど仏教の振興に大いに貢献しなお、求道の志は止むことはなかった。終に貞観3(861)年に二十余名を引きつれ入唐し長安に滞在の後、さらなる師を求め海路、天竺(インド)に向われた。しかし、羅越国(マレー半島南端在。マレーシア)で薨去。現地に供養碑があると聞いております。死因について古くから虎の害に遭って落命したとの俗説もございます。
 過日、菅坂峠を越え、東舞鶴から国道27号線を経て金剛院に参詣しました。鹿原川の細流沿いの道を南に800bほど
本堂
塔婆(三重塔)
行くと寺はございます。塔婆(三重塔)を右手に見て石段を登ると5間4間の大堂(本堂)がございます。藩政期に修築され、向拝回りに精緻な霊獣などの彫物が施されてございます。春夏秋冬、訪れる人も多く特に、紅葉の季節は参拝される方が多いようです。
 私は一年に数回、金剛院に杖を曳きご本尊を拝み、鹿原公園のベンチでもみじや雪景色に囲まれた御堂をひがな眺めぼんやり過ごすことを楽しみにしてございます。
客殿を望む
 このお寺に、透廊で本堂と結ばれた懸崖作りの客殿がございます。そこで遊んだことは一度もございませんが紅葉の季節や、透廊にうっすらと雪が積もる冬のころ客殿から眺める景を夢想しながら下山いたします。
 6月下旬、卯の花が咲くころでございます。夕刻、本殿の石段を下りかけると遠くから笛の音が聞こえてまいります。後ほど公園のベンチで市民が吹く笛の音でございました。美しい音色にしばし聞きほれてしまった記憶がございます。
 遠い昔、笛の名手平敦盛は若狭守に任じられことがございます。愛笛「青葉」は祖父の平忠盛から譲られた笛。忠盛はは久安2(1146)年、鳥羽天皇の皇后美福文院から普請奉行に命じられ金剛院堂塔等の修築に関わっています。「青葉」はその功によって鳥羽院から賜った笛かもしれない。鹿原川の湯船橋の近くに今なお樹勢盛んな忠盛手植えの奉行杉がございます。また湯船橋は寺の湯屋の所在を示唆しているように思われます。宮津の文殊院境内に遺存する湯船を参考にするとイメージできるかと思います。
 塔婆(三重塔)の造立は寺伝によると永保2(1082)年。白川天皇の寄進によるものです。このとき真如親王の追善供養が行われ慈恩寺の寺号が下賜されております。この寺の永い歴史の彼方に人々の報恩の想いが浮かんでまいります。寺の宝物は大変多く、その中に快慶作の執金剛神立像がございます。東大寺法華堂のそれをモデルにしたものと推定されてとおりますが快慶は天部彫刻の名人でしょう、執金剛神立像をなぜ刻んだのか疑問がございます。畢竟快慶はこの像を刻むことによって造仏のスケールを広げようとした熱意が知れ、その意味からも大変貴重な仏像かと思います。丹波には快慶の初期の作品がいくつか現存してございます。快慶はひょっとして丹波の工房に所属する仏師として出発し、都に出て名を成した人ではなかったかと思ってもみます。
 また逆に、丹波柏原(かいばら)(京丹波市)の彫刻師中井権次(一統)は徳川家康召抱えの京大工頭中井正清にルーツがございます。当時、大工頭(役所)は幕府の統治組織に組み込まれ、神社仏閣の仕事を請負うと大工を派遣する公儀役所を設けておりました。江戸時代初期のころに中井役所が柏原八幡宮・三重塔の再建の仕事を請け、再建完了後も中井道源が柏原に残り、その系譜が現在まで引き継がれております。快慶とは異なって丹波柏原に入部してきた彫刻師だったのでございます。柏原は地理的に丹波、丹後、但馬、播磨の中心部にありかつ、活動の圏域は言語の訛を共有してございます。仕事は大変、やり易かったのかも知れません。以来400年余、中井家は家業を継がれてございます。もっとも昭和のはじめから宮津市に移住し第11代目当主が彫刻店を営まれておられるようでございます。
 余談になりますが、正清の従弟筋の家系にあった中川利清の息女お紋の方は徳川8代将軍吉宗の生母でございます。そうしたことも権次一統の仕事の励みになったことでしょう。
 彫刻師6代目中井権次橘正貞の仕事(作品)が金剛院にございます。本堂の唐破風の向拝に精緻な彫刻が刻まれてございます。
 向拝を正面から眺めると破風の下、二重虹梁の上に太瓶束を挟んで右手に笛を吹く天女が、左手に蓮の花を手に持った天女が向き合い、下の虹梁間に宝珠を握りいらかを立て前方を睨み邪気を払う竜を設えてございます。転じて向拝柱を貫く左右の頭貫と海老虹梁の木端に目をやると、阿吽の獅子と獏の丸彫りの霊獣が刻まれております。向拝の背面に回ると、左右の手挟みに籠彫り菊を配してございます。
 この寺の彫刻に中井権次橘正貞の銘板が見えます。正貞は権次を名乗った最初の人。下絵の絵図帳を携え、寺歴や信仰の様を彫刻で著すことも忘れなかった彷徨の彫刻名人でございます。作例も多いですね。金剛院のは江戸時代後半の作品かと思います。
金剛院の彫刻
 
高岳親王のこと
 高岳親王は桓武天皇の皇子で第51代平城天皇の第3皇子でございます。平城天皇は在位4年にして実弟の第52代嵯峨天皇に譲位し、皇太子に高岳親王が立てられ親王は次は天皇にと嘱望されていたことでしょう。
 ところが高岳親王の立太子後、薬子(くすこ)の乱がおこります。親王は乱に連座して詔勅も発せられないまま廃太子とされました。その顛末の公式見解はございません。後ほど少し時間をいただき薬子の乱並びに高岳親王の乱後の足取りについて思うところを申し述べたいと思っています。
 当時の上皇は退位しても天皇と同様に陛下と呼ばれ、自身を朕と称しております。上皇には天皇同様に詔勅を発出する権限が与えられており、退位後も政務に関わり権力を誇示する上皇もございました。しかし朝廷が二所存在することになって、しばしば政治の混乱が生じることは自明でございましょう。
 平城上皇の場合、嵯峨天皇との間に「二所朝廷(ふたどころのみかど)」が存在する中、上皇が官人を引き連れ平安京から平城宮に移動し遷都の意図が見え隠れすることがございました。政策上の問題から両者が対立することも多々あったのでございましょう。反発した上皇が挙兵の準備を始める中、嵯峨天皇は三関を押さえ警護を固めたところ上皇と愛人藤原薬子は逃亡途上で捕縛され上皇は剃髪し出家、薬子は官職を解かれ毒を煽って自殺、薬子と組んで乱に関わった参議・藤原仲成(薬子の兄)は射殺(死刑)され、多くの官人が配流などの処分が行われ乱は収束します。高岳親王は連座の咎で皇太子を廃されました。それにしても上皇と天皇の諍いの実態がよくわからないまま薬子の乱と命名されておりまして大分、違和感がございます。
 日本後記を読みますと、薬子が乱の首謀者といわんばかりの言辞が踊っております。「・・・己が威権を擅にせむととして、御言にあらざる事を御言と云いつつ、褒め貶すこと心に任せて、あへて憚る所なし・・云々・」と記されております。なぜこのように表現され証拠の言及がなされていないのか疑問でございます。当時それを可能とする権限が薬子に与えられていたということでございましょう。薬子は乱の勃発のとき女官の最高位の尚侍でございます。尚侍は三位相当職の女官で、天皇による太政官への命令書である内侍宣の発給権を握り、天皇の言辞を奏上伝宣する職責がございます。しかし薬子は情報操作して内侍宣の内容をかえてしまった、そこに咎があるとして後記は薬子を乱の首謀者とした・・・そういう見方もできるかと思います。研究者の中には薬子・仲成は平城天皇の復権を企んだとする者もいる、証拠がなく乱の実態がよくわからないので平城上皇こそ乱の首謀者と考えこともできるでしょう。どうあれ乱の罪過は高岳親王にまで及び親王は廃太子されました。12歳の親王が何をされたのか、繰り返し申し上げると国史は親王の罪過の立証を欠いていて廃太子の詔勅がございません。朝廷の公式見解を欠いています。摩訶不思議な処分が行われた。薬子の乱は失敗し、嵯峨天皇と母違いの大伴親王が皇太弟に立てられたのでございます。大伴親王は桓武天皇の嫡流により近く合理的な理由なしとはいえませんが天皇の意思決定に嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后とも)の意思とも重なったのではないかと思っております。皇后は天皇を補佐する立場にございますので天皇の意思決定への影響力は少なくはない。そういう時代でございます。加えて皇后の系図をたどると藤原氏と橘氏の隆盛をささえた一人の女性・犬養三千代が浮かんでまいります。三千代は橘氏の初代で諸兄の生母。後年、藤原不比等の妻となって光明皇后などを産み天皇の外戚たる藤原氏を支えた女性ですね。臣下の橘嘉智子も光明皇后の先例を根拠に立后できたわけでございます。藤原氏との血脈を大事にすれば藤原旅子(父藤原百川)を母とする大伴親王を支持し天皇に思いを伝えたのではないかと、そんなことを思ってもみます。しかしそれは公式見解として詔勅で知らしめるようなことではございません。そこに高岳親王に連座の罪を重要視したというより皇后自身の血筋を思うがあまり大伴親王を推した結果、高岳親王を排除することになったのではと思ってもみます。法体となられた真如親王は乱の顛末について何も語ってはおられない。
 青葉若葉に見え隠れする塔婆の彼方に真如親王の法体が鹿原山の彼方に浮かんで見えるのは翁がひとりだけではないだろう。−令和7年6月24日−